森の木々が美しくて…

  トナカイたちが可愛くて…

  人がみんな優しくて…

     何度でも行くたくなるところ…タイガ

社会主義崩壊と社会適応

ポスト社会主義時代におけるトナカイ飼養民ツァータンの社会適応

-モンゴル北部タイガ地域の事例-
A social adaptation of reindeer herder “Tsaatan” in a period of post socialism:
A case study about a taiga district of north mongolia

JCAS Occasional Paper no.20 スラブ・ユーラシア世界における国家とエスニシティⅡ 帯谷知可/林忠行編 pp45-58,2003

1 はじめに

 本報告は、モンゴル国北部タイガ地域に居住するトナカイ飼養民ツァータンのポスト社会主義時代の社会適応の状況を報告するものである。
 現在、モンゴル国において唯一のトナカイ飼養民ツァータンは、社会主義時代に国営企業労働者として組織され、1,000頭を越えるトナカイを飼育するに至るなど発展をみせたが、現在ではその陰もなく、社会的かつ経済的に追いつめられた状況にある。1990年の社会主義崩壊以後、彼らの生活形態およびそれを取り巻く社会にいかなる変化が起きたのかを明らかにした上で、現在の彼らの社会適応戦略を述べることが本報告の目的である。

2 ツァータンとは

1)「ダルハドの窪み」の自然環境とその特徴

 トナカイ飼養民ツァータンはモンゴル国北部フブスグル県ツァガーンノール郡西部およびオラーンオール郡北部タイガ地域に居住している。この地域は「ダルハドの窪み」と呼ばれる2,000~3,000m以上の山地に囲まれた盆地の北西部山岳地域にあたる。

 山地より流れ出る無数の小川はモンガラク川、ゴナ川、ホグ川などを作り、ツァガーンノール湖へと流れ込む。そしてツァガーンノール湖からはシシギット川が北へ流れ出し、途中から西へと進路を変え、ロシア連邦トバ共和国のエニセイ川へと流れ込んでいる。

 「ダルハドの窪み」には3つの行政区、すなわちオラーンオール郡、ツァガーンノール郡、リンチンスフンベ郡が存在する。もっとも南に位置するオラーンオール郡の中心地まで首都ウランバートルから約900km、フブスグル県の中心地ムルンからは約250kmの距離にある。特にムルンからの道は整備が悪く、車で移動するときの平均時速はせいぜい40km程度しか出せない。そして、北に位置するツァガーンノール郡まではオラーンオール郡の中心地から更に「ダルハドの窪み」の低地部を約100kmを走らねばならない。低地部分の年間降水量は300mm以上、山岳地域では500mmを越える。そのため、河川は夏期には氾濫し、「ダルハドの窪み」内の交通が分断されることも多い。

 さらにこの地域はモンゴル国内において豪雪および寒冷地として有名な土地であり、低地部の川沿いや湖岸では、冬期-50℃に達する。また山岳地域および山麓の森林付近では深く雪が積もり、外部からのアクセスを非常に困難にしている。

 「ダルハドの窪み」は以上のように、厳しい自然環境下にあるために、外部からの接触は他草原地域と比べて少なく、それゆえに人々は独自の言語や生活習慣を留めている。またこういった理解は他地域の多くのモンゴル人たちの間で広く聞かれる。

2)「ダルハドの窪み」の3つの集団の特徴

 「ダルハドの窪み」には3つの集団が居住している。ダルハド、ウリヤンハイ、ツァータンの3集団である。そして、これら3集団が森林地域から草原地域にかけて、大まかではあるが、居住地域を住み分けているのが観察される。

 まず、ここでこれら3集団の特徴を述べておこう。

 ダルハドは、「ダルハドの窪み」の低地部において草原牧畜を営む最多数集団である。17世紀に「ダルハドの窪み」一帯が活仏直轄領となった際に、この地域にはモンゴル系、チュルク系、サモエード系の小集団が居住しており、その中のハル・ダルハド氏族の名を取って「ダルハド」(注1)という集団が作られた経緯がある。従って、もともとはモンゴル語系ではなかった集団もダルハドに含まれている。つまり、ダルハド集団とは17世紀にモンゴル人によって、新しく作られた集団であり、モンゴル語系ではなかった氏族集団からすれば、言語や生業面においてモンゴルの影響を受けながら、モンゴル化して現在に至っているのである。いまや、ダルハドを名乗る者たちは、自分たちを完全に「モンゴル」と名乗り、自らの生業が草原牧畜にあると認識するに至っている。

 ウリヤンハイは、比較的森林地域に近い草原、山麓で草原牧畜を行う集団で、特にモンゴラク川が草原地域に流れ込む付近などに居住している。彼らは、自らをウリヤンハイ(注2)と自称することが多い。しかし、中には、みずからを「モンゴル」であると名乗り、なおかつ「かつてはツァータンだった」という説明をする者もいるなど、集団として非常に捉えにくいという特徴を持つ。こういった事情により、自らをウリヤンハイと名乗る人を捜すのは困難なのが現状である。

 ウリヤンハイを名乗る人々は「モンゴルでなかった」記憶を鮮明に持ちつつ、生業においてはモンゴル的草原牧畜を営みながら、かつては狩猟採集を行っていたことを知っているなど、草原地域での生活に移行してきた歴史を身近に感じているようである。また、ツァータンとの親戚関係も多く認められることからも、草原地域に生活域を移し、なおかつ草原牧畜を生業とするようになりながらモンゴル化の途中にある集団であると位置づけられよう。
ツァータンはトナカイを輸送交通手段として利用するために飼育し、狩猟採集を行いながら季節移動を行う。暑さを嫌い寒さを好むというトナカイの生態的特徴に合わせ、山地の高度を利用した移牧を行うために、ツァータンの生活地域は山岳・森林部に限られる。

 現在、ツァータンは大きく二つのグループに分かれて生活している。ツァガーンノール湖から流れ出るシシギット川を挟んで南北に分かれ、それぞれの地域で移動を繰り返している。現地では北の地域を「ズーン・タイガ」、南の地域を「バローン・タイガ」と呼び分けている(注3)。この両タイガを合わせて約30世帯ほどのツァータンが500数十頭のトナカイを飼育しながら生活している。

  「ズーン・タイガ」のグループは基本的にトナカイの所有頭数の少ない世帯がまとまって宿営集団を作る傾向があるのに比べて、「バローン・タイガ」のグループは、「ズーン・タイガ」グループよりもトナカイ所有頭数の多い世帯が多く、単独、もしくはごく少数世帯で宿営集団を作るなどの特徴がある。また、特に集団的トナカイ飼育をしている「ズーン・タイガ」に比べて、「バローン・タイガ」では個別世帯別トナカイ飼育を行っている(注4)など、両グ ループの間に違いが見られる。

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 この違いは、それぞれのグループの形成過程によるところが大きい。「ズーン・タイガ」グループはかつてはリンチンスフンベ郡下に、また「バローン・タイガ」グループはオラーンオール郡下で生活していた。それぞれの地域で各集団が経験した社会主義政策には違いがあり、それぞれが生活を変化、適応させてきた歴史を持つ(注5)。そして、1985年のツァガーンノール郡設立時に、それぞれの郡出身者たちがまとまって、現在の地域に住み分けるようになったという経緯がある。つまり、ツァータンは社会主義モンゴル設立以後は、従来のような大多数民族のモンゴル人の影響下にあったのに加えて社会主義化によってモンゴル民族主導の社会システムに編入されるという第二の力を被ることになったのである。

 ツァータンが前述の2集団と決定的に異なる点として、自分たちをモンゴルではなくトバであると明確に区別し、認識していることがあげられる。
ツァータンという呼称自体は、「トナカイを持つ者」を意味するモンゴル語であり、モンゴル人によってつけられた他称である。本来、彼らの自称はトバであるが、名乗るときには、「タイガの人」という言い方をして明確に草原に住むモンゴル人たちと区別することが多い(注6)。

 彼らはトバ語を母語としているが、ほとんどの10代、20代の彼ら同士では主にモンゴル語が会話に使われ、トバ語を理解できても話せない、もしくはまったくわからないという若者が年々増えている。しかし、10代の子供たちでトバ語を理解できる者が存在すること自体が、他の2集団と比べてモンゴル化の影響を受けていないことを示しており、むしろ、これから加速度的にモンゴル化が進められるかもしれないという点において注目すべき集団であろう。

 以上のような3集団はそれぞれにモンゴル化の進行深度が異なっている。自らを完全なるモンゴルと名乗るダルハド、かつての自分たちが森に住んでいたことを記憶にとどめつつも生業や言語においてモンゴル化が進んでいるウリヤンハイ、そして、自らをモンゴルとは明確に区別し、草原とは異なる環境で異なる生業を営みつつも言語においてモンゴル化がはじまっているツァータンが、「ダルハドの窪み」に高地から低地へとグラデーションを描きながら住み分けている。これらを図示すると図2のようになる。厳しい自然環境のもと、モンゴルの影響を受けにくかったと考えられる「ダルハドの窪み」の中でも、特にモンゴル化が遅く始まっており、同時に、かつてダルハドやウリヤンハイが経たであろうモンゴル化の歴史をこれから経験しようとしているのが、ツァータンと呼ばれる集団なのである。

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3 トナカイ牧民ツァータンの形成過程

 ここまで、ツァータンの住むタイガと接する「ダルハドの窪み」の自然および社会的特徴について概観してきた。ここでは彼らが社会主義時代に経験したことを時代を追って概観していくこととする。

 もともとは、小規模トナカイを所有し、主生業を狩猟採集としていた狩猟採集民であった「トナカイ飼養民」の彼らがなぜ現在、「トナカイ牧民」(注7)として認知され、ツァータンという名称自体が定着するに至ったのかを明らかにしたい。

1)社会主義時代以前のツァータンの生活と社会情勢

 ツァータンが自らを「タイガの人」と呼ぶのをよく聞く。かつての自分たちを「主無きタイガの人々」と懐かしむことも多い。

 この時代を知るものの言によると、多くて20数頭程度のトナカイを飼いながら、現在よりもこまめに移動して生活をしていたという。移動した先で木の実や果物、植物の球根などを採集し、付近で狩りや漁労活動を行い、採集物や狩りの獲物が少なくなると、移動するというパターンであったという。トナカイの生態的特徴に移動先や営地条件はある程度左右されるが、小中規模頭数のトナカイを飼育する場合、ほぼどこへ行っても十分な飼育環境を得られたため、むしろ狩りの獲物を追って移動していくことの方が多かったらしい。麓のモンゴル人たちとは毛皮交易を行い、日用品やお茶や小麦粉を入手していたという。モンゴル人との通婚はほとんど無く、毛皮を売りに麓に降りるツァータン側から接触、交流をするのみであったという(注8)。
活仏ジェプツンダンパ・ホトクトの死んだ1924年に君主制が廃止され、同年モンゴル人民共和国が宣言されて後の1925年活仏直轄領は廃止され、「ダルハドの窪み」の住人たちは、新しい行政区に組み込まれるようになった(注9)。

 それ以後、「ダルハドの窪み」においても1929年にモンゴル人民革命党の党細胞が作られるなど、徐々に社会主義化が進み始める。この社会主義化は低地部から徐々に進み、1931年には現在のオラーンオール郡設立に関する話し合いが行われている。1932年にモンゴル・トバ国境が制定されて後、ツァータンの活動域は限定され、国境をまたいだ自由な移動は不可能となった。国境閉鎖時にモンゴル側に宿営地を偶然に構えていたツァータンはそのままモンゴル人民共和国民として登録されることとなったのである。

 ところが、ツァータンの生活はタイガ地域で営まれるため、モンゴル人民共和国民として登録されたとしても、国境を越えられなくなった以外に生活への変化はほとんど起こらなかったようである(注10) 。

2)社会主義時代のツァータンの生活と社会情勢

 1931年にオラーンオール郡が設置されるなど低地部で進められていた社会主義化がツァータンに影響を及ぼし始めるのは、1956年にネグデルが作られる頃からである。1956年にオラーンオール郡にネグデルが出来、同年、ツァガーンノール湖付近に漁業組合が設立、さらに1957年にはツァガーンノール湖付近にオリギル・ネグデルが作られるなど活発な集団化が始められている。1956年のネグデル設立当時にはツァータン世帯は2世帯しか参加していなかったが、1960年には約70世帯が郡中心地、および漁業組合に居住するようになっている。トナカイを「社会化」し(注11)、自分たちは工場労働者として低地部で生活する世帯が増え始めたのである。これに伴い、社会化されたトナカイは専業トナカイ牧民によって飼育されるようになった。実際には、家族の家長や男子青年が集まってタイガに生活しトナカイ牧畜に携わり、女性や老人、子供たちは郡中心部などで定住生活をするというのが一般的スタイルであったらしい。

 トナカイの飼育が専業牧夫によって行われるようになると、牧夫たちは賃金収入を得るようになり、日用生活品や食料を得るための毛皮猟の必要が無くなった。彼らにとってトナカイ飼育において効率的に頭数を増やしていくことが第一義とされたのである。また、70年代には、政府はトナカイを第6番目の家畜として増やすことを奨励し、同時にツァータンの定住化をさらに推し進めた(注12)。ツァータン村を建設、そして、ツァータンの定住化、文明化を社会主義の成果であると国内において喧伝するようになりはじめる。

 さらに70年代半ばには、それまではもっぱら冬場の輸送手段としての利用ばかりであったトナカイを食肉として利用するようになり始めた。大規模肥育型トナカイ牧畜へと転換しようとしたのである(注13)。当時1,000頭を越えたトナカイのうち700頭もを屠殺し、食料へ回すなどの政策がとられた。しかし、これはツァータンには歓迎されなかった。彼らにとってトナカイ飼育目的は本来、食用ではなかったためである。こういった大規模肥育型トナカイ牧畜への転換は結果的にトナカイを急激に減らすこととなった。76年をピークにトナカイ頭数は減少し始める。

 トナカイの生態的特徴を知らないモンゴル政府中央や地方行政府は、トナカイをウマやウシ、ヒツジなどのように量産し、食肉などに利用することが可能であると考えていた。そのため飼育の合理化を優先させるため、1980年前半にはソビエトシベリア地域でのトナカイ牧畜を伝えるなどプロパガンダに力を入れている。

 しかしトナカイの数は減少を続けていたため、トナカイ飼育地域を統合し、合理化を図ることとなった。それが1985年のツァガーンノール郡設立であった。ツァガーンノール湖畔に「トナカイ・狩猟産業国営組合」という国営農場が作られ、トナカイ牧畜、毛皮狩猟といったツァータンの活動は国の管理するところとなったのである。こうした動きは、ツァータンの生活のさらなる向上という名目で行われ、文明化されたツァータンが独自の郡を作るに至ったのであるという社会主義の成功物語として扱われている。

 リンチンスフンベ郡においては、トナカイを社会化し、木材工場、漁業場などの工場労働者となった者が多かったためトナカイの数は激減していた。世帯の誰かしらはトナカイ飼育を行っていたが、頭数が少ないためごく少数の人員で飼育にあたり、それはたいていが世帯主であった。従って、その子供たちは成人すると世帯主がトナカイ牧民を引退するまでの期間を工場労働者として生活することになっていたケースが多い。この結果として、飼育技術や狩猟技術の伝承の断絶が起きることとなっている。つまりリンチンスフンベ郡に在住していたツァータンはタイガから離れ、またトナカイから離れて生活する時期をもつ人が多かったのである。

 これに対してオラーンオール郡にいたツァータンは一貫してトナカイ牧畜に携わってきた者が多い。ツァガーンノール郡設立時にはこれらトナカイの扱いにおいてより熟練した者たちが約700頭のトナカイを引き連れて移動したのである。オラーンオール郡からツァガーンノール郡に移動したトナカイは、ツァータンたちに再分配された。特にリンチンスフンベ郡から移動してきたツァータンは、漁業場での工場労働を続けるか、トナカイ牧畜をするかの選択が許された。このとき、トナカイの再分配を受けた世帯が現在の「ズーン・タイガ」居住のグループの始まりである。オラーンオール郡から移動していき、自分たちの飼育してきたトナカイを分配したグループが現在の「バローン・タイガ」居住グループである。

 このような経緯において、ツァータンは専業トナカイ牧民として形成され、輸送交通手段を目的とした小中規模トナカイ飼養から食肉利用を目的とした大規模肥育型トナカイ牧畜へと転換させられた。その最終段階が「トナカイ・狩猟産業国営組合」への統合であった。しかし、結果、「ズーン・タイガ」という極少規模トナカイ所有世帯およびその集合体と、「バローン・タイガ」という小中規模トナカイ所有世帯を作り出すとともに、ツァータンのトナカイ飼育技術および移動原理から狩猟採集活動の要素を切り離すこととなったのである。

4 社会主義崩壊とツァータンの生業変化

 1985年にツァガーンノール郡が設立され、まもなく1990年に社会主義体制は崩壊した。崩壊直前のツァータンの状況は、社会主義以前とは似て非なる生業形態および生活原理となっていたと言えよう。彼らは基本的には「タイガの人」と呼び表すように、タイガを中心として生活空間を組み立てているため、この生活原理とは、タイガの中での移動を指す。

 彼らの現在の社会適応戦略を理解するために、ここでは、ツァータンの基本的な生活空間の変化を述べることとする。
彼らの生活は、社会主義時代以前はトナカイ飼育、交易、狩猟・採集の3つによって成り立っていた。これらの活動の相互関係、すなわち生業比重の変化を明らかにすることで、ツァータンにとっての社会主義の意味や現在の社会適応戦略の方向性を理解するための材料を提示したい。

1)ツァータンの活動空間利用の変化

 社会主義時代以前は彼らの生活地域はタイガ地域であった。ここはトナカイを飼う場所であるとともに狩猟・採集活動を同時に行いうる空間である。特にこの時代においては、狩猟・採集を行う場所をトナカイ飼育の場所と切り離して考えていないことが特徴である。そして、タイガ地域で得たものを換金、もしくは必要物資と交換するための場所、すなわち交易の場所があった。この地域をツァータンは「ゴル」と呼んでいた。「ゴル」とは「川」を意味するモンゴル語である。自分たちの生活地域がタイガ地域であることに対し、交易相手であるモンゴル人が住む場所は山の麓から先の低地部、大きな川の流れる場所であるという理解から「ゴル」と彼らは呼ぶ。つまり、社会主義時代以前は「タイガ地域」と「ゴル地域」の二カ所を移動するというのが生活の基本パターンであった。

 社会主義時代は、狩猟・採集の場という意味の切り離された「タイガ」がトナカイ牧畜の場所として専業牧民の生活・労働空間となった。そして、専業牧民の家族は、行政の中心地「トゥブ」(注14)に定住するようになっていた。「タイガ」では直接に獲得物を得ることはほとんど無く、あくまでも労働の場であり、専業牧民は、「タイガ」と「トゥブ」「ゴル」を仕事場に通うように行き来していたのである。

 ポスト社会主義時代には、社会システム上の大きな変化として、トナカイ牧畜による賃金を受けられなくなったことがあげられる。それまで生活必需品や食料の購入を可能としていた賃金が得られなくなることで、独自に換金物資もしくは食料を直接入手しなければならなくなった。トナカイ牧畜から換金物資は袋角以外は得られないため、狩りの獲物から食料と換金可能部位を入手する必要がうまれてくる。ところが、社会主義時代に確立させられたトナカイ牧畜における移動原理からは狩猟採集の要素は切り離されてしまっている。従って社会主義時代以前のように「タイガ」ですべてを得ることは不可能となっていたのである。そのため、狩り場「ヘール」(注15)へと出向いて獲物を得なければならない。従って彼らの利用する空間として、「トナカイ飼育を行い、通常の生活を営むタイガ」と「狩り場であるヘール」が存在することになった。更に、社会主義時代にモンゴル地域との関係はいっそう深いものとなっていることより、行政中心地である「トゥブ」や交易活動の場所となる「ゴル」とのつながりは依然維持されている。すなわち、ポスト社会主義時代のツァータンの活動空間は、「ヘール」「タイガ」「トゥブおよびゴル」の3カ所に区別されているのである。

 これらをまとめると図3のようになる。かつて「ゴル」と「タイガ」の二つに住み分けられていただけの空間が、社会主義時代以後は特定の機能を果たすために利用されるようになり、さらに社会主義システムの崩壊と共に、「ヘール」「タイガ」「トゥブおよびゴル」の3つの空間として細分化されて現在に至っている。

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2)生産比重の変化

 ツァータンの行う活動には大きく分けてトナカイ飼育、狩猟採集、交易の3つがある。これら活動の目的とその方法について時代ごとで比較することにより、生業比重の変化が明らかとなり、彼らが何を求め、如何に対応してきているかを考察することが可能となるだろう。

 社会主義以前においては、狩猟採集活動は食料の調達と草原地域との交易に利用するための交換物資の獲得を目的として行われてきた。狩猟対象動物は食肉用のシカやイノシシなどの中型および大型動物と、クロテンやリスなどの毛皮獣であった。トナカイは、輸送交通手段の確保と非常時の食料確保を目的に飼育されていた。飼育頭数が平均20頭前後と少ないことにより、トナカイ飼育環境よりも狩りの獲物や採集できる植物の多い場所が優先されて移動が行われていた。すなわち、「狩猟採集活動(食料調達および交易用換金可能物資獲得)>トナカイ飼育(輸送交通手段および緊急時の食料備蓄)」という図式であったといえる。

 続く社会主義時代には、狩猟採集活動には大きな制限が加えられることとなり、銃の所持、狩猟行為自体に対して許可を得なければならなくなった。狩猟対象動物はクロテンやリスなどの毛皮獣であったらしい。この時期にはトナカイ牧民の専業化や大規模肥育型牧畜によるトナカイ飼育の牧畜化が進み、トナカイは輸送交通手段などの直接利用に加えて、食肉利用を目的として飼育されるようになっていった。トナカイを飼育する場所は、以前と比べて集落に近いところに構えられるようになり、群れの規模が大きくなったため、効率的な管理を可能とする柵の利用が奨励されるなど、家畜個体の世話の方法も変化している(注16)。すなわちツァータンが専業トナカイ牧民として確立したこの時代はトナカイ牧畜の生業比重は最も大きくなり、まさに主生業としての地位を築くことになった。しかし、このトナカイ牧畜は、家畜からの余剰物を生活に利用するという草原地域での牧畜のような循環型経済を作り出したのではない。トナカイ牧畜を生業とするというよりも、専業トナカイ牧民が給与所得者としてトナカイ牧畜を行うようになったのである。このことは、それまでのトナカイ飼育方法や技術に大きな変化をもたらすこととなり、それに伴い、彼らの空間利用および移動原理もまた変化を余儀なくされていったのである。これを図式化すると、「トナカイ牧畜(食肉および乳製品利用)>狩猟採集活動(換金可能物資獲得(注17))」という形となる。

 ポスト社会主義時代に入ってからは、給与所得者としてトナカイ牧畜を行っていた専業トナカイ牧民たちは給与を受け取れなくなり、社会主義以前のように日々の糧と現金収入を得るために、狩猟採集活動とトナカイ飼育を最大限に利用することが要求されるようになった。社会主義崩壊時に分配されたわずかなトナカイ(注18)を所有する世帯単独では、社会主義時代に奨励され、自ら学んできた大規模肥育型トナカイ飼育を行うことは不可能であった。むしろ社会主義時代以前の所有規模と利用方法に戻らざるを得なかったのである。そんな中で、トナカイだけを私有財産として所有していた彼らがトナカイを出来る限り食用に回さないようにしたことは明らかである。しかし、大規模なトナカイの群れを所有しない以上、食料を牧畜活動から得ることは不可能である。このジレンマの中で、狩猟採集活動による食料調達は必須の活動となったのである。更に食料調達の他、換金可能物資を調達し、麓の「トゥブ」「ゴル」に持ち込んで現金収入を得なければ生活は成り立たない。そのため、トナカイから得られる唯一の換金可能物資である袋角の他、シカの角や尾、ジャコウセンなどの漢方薬の原料、毛皮などを入手するための狩猟採集活動の生業内における比重は非常に高くなっていったのである。しかも「ヘール」「タイガ」「トゥブ・ゴル」を移動するためにはトナカイの所有もまた必須条件である。これを図示すれば、「狩猟採集活動(食料調達および換金可能物資調達)&トナカイ飼育(輸送交通手段および緊急時の食料備蓄)」となる。すなわち、どちらもがタイガにおける生活を成立させるために欠かすことの出来ない両輪として機能しなければならないのである(図4)。

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5 まとめ―現在のツァータンの社会適応

 これまでにツァータンの生活の社会主義化とその崩壊について述べてきた。ツァータンにとっての社会主義化とはモンゴル人主導の社会システムによって生活形態を変化させられることであったと言えよう(注19)。つまり、ツァータンを取り巻く環境は、彼らを草原牧畜原理に基づいてモンゴル化しようと常に働きかけてきたのである。しかし、彼らは、それらに翻弄されながらも、かつての狩猟採集活動を復活させ、トナカイ飼育においては社会主義時代に学んだ知識を携えた上でかつての形態に戻すなど重層的な生業形態を作り出すに至っている。これら状況において、彼らの生活様式にいくつかの社会適応の型を確認できる。ここではまとめとして、現在のツァータンの社会適応の型を述べることとしたい。

 現在、大きく分けて3つの型が観察される。すなわち、①脱タイガ型②社会主義式トナカイ飼育型、③ネットワーク型の3つである。

 ①の脱タイガ型は、トナカイ飼育をやめ、草原家畜を入手し、草原地域で生活する世帯に観察される。すなわち、本論文でいうツァータンであることをやめることを意味する。生活地域を草原へと移行させる理由は様々であるが、その一つにダルハドやウリヤンハイとの婚姻があげられる。ツァータン同士で結婚相手を見つけるのが困難な現在、ダルハドやウリヤンハイとの婚姻が増えているが、婚資として受け取った草原家畜が多い場合、生活地域を草原地帯へと移さねばならないのである。トナカイ数の減少に伴いこの傾向は今後増えていく可能性が高い。ただし、これは社会に適応することでトナカイを持つ者としてのツァータンではなくなり、モンゴル化を受け入れることにつながっている。

 社会主義時代の前半に、工場労働者となりトナカイ飼育から中長期間離れた経験を持つ者が多いズーン・タイガに見られるのが②の社会主義式トナカイ飼育型である。すなわち、比較的トナカイ飼育の経験が浅く、単独でトナカイを増やすことが不可能な規模の群れを所有する世帯が集まって助け合いながら、共同生活を送るタイプである。本来ツァータンは世帯を単位として、親族が集まって宿営集団を形成してきたが、ズーン・タイガでは経済的および仕事効率を優先して集団が形成されている。数世帯で宿営集団を作り、群れを共同で管理している。宿営集団内で別途トナカイ飼育グループを作り、宿営地から離れてトナカイを追いながら転々と住居を変えるなどのオトル式(注20)の放牧などを行うこともある。群れの規模は社会主義時代と比べて遥かに小規模であるが、飼育方法は社会主義時代のものをほぼ踏襲している(注21)。この型はタイガへの依存度が特に強い点において次に述べるネットワーク型と区別される。しかし、タイガへの依存度が高いために、タイガでの活動制限がされていく将来に不安が残っている。また、宿営地を構成する世帯は多いが、トナカイの利用は世帯ごとに行われるため、トナカイ頭数を維持していくこと自体が困難になっていくことが予想される(注22) 。

 ③のネットワーク型はバローン・タイガ集団の中でも比較的群れの規模の大きい宿営集団、世帯に観察される傾向である。社会主義時代に得た肥育型トナカイ牧畜の技術を利用して、トナカイの世話を容易なものとしつつ、労働力を狩猟採集とトナカイ飼育に分配し、「ヘール」「タイガ」「トゥブおよびゴル」のそれぞれで常に活動を展開するのが特徴である。ネットワークによって分業と活動範囲の広域化で分散した家族や財産を統合しているのである。

 基本的に家庭内において分業が行われるが、この分業には親類や近しい友人などが参加することもある。トナカイ飼育の委託を受け、自家所有の草原家畜を預けるという形で麓とタイガの間に常なる交流を生み出している。この交流は、ツァータンに対しては草原化する要素を増大することになるが、むしろ社会主義時代に培われたモンゴルとの関係を利用することで、社会変化に柔軟に対応していこうという姿勢をツァータンの中に生み出している。また、再生産性の高い草原家畜を所有することは、経済基盤の重層化を生み出している。タイガに住みながら、食用の肉は草原から調達することが可能になれば狩猟に負う比重を低めることにもつながるという利点がある。

 現在、観察される社会適応の選択肢は以上であるが、中大規模な群れを所有する宿営集団は婚姻などによる家畜の再分配をこれから経験することになり、これは世帯ごとの所有頭数の細分化を促すだろうことは明らかである。総トナカイ頭数が減少している現状に加え、狩猟活動への規制の強化や狩りの獲物の減少など、ツァータンを取り巻く社会情勢は厳しい。狩猟活動への規制が厳しくなれば、食料および換金可能物資の調達が不可能になる。現在は、違法ではあっても、狩猟活動を行うことによって生業の両輪をそろえることが可能となり、生活が維持されているのである。
社会主義式トナカイ飼育型にせよ、ネットワーク型にせよ、トナカイの絶滅、もしくは狩猟活動の完全停止のいずれかが起きたときに破綻する。ツァータンがタイガで生きていくためには、草原家畜飼育を平行して行うことで、生活基盤を更に重層化する必要があるだろう。しかし、トナカイがいなくなってしまったならば、「ツァータン」という呼称自体が無意味なものとなってしまうかもしれない。こうした様々な要素を考慮したとき、ツァータンたちの生き残りには絶望的見通ししか無いように思えるが、彼らが今後いかに適応していくのか観察、調査を続けていきたい。 

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 注

1 дарханí(darhan)「租税・賦役を逃れた人々、神聖なる人々、職人・名人」などの意味を持つモンゴル語の複数形。モンゴル中央の活仏への貢ぎ物をする集団として清朝皇帝への納税義務を免除された人々を意味している。

2 オイガルと呼ぶこともある。まさにこれは彼らがダルハドよりもツァータンに近い位置を占めているという意識を表した表現である。

3 「ズーン・タイガ」は「東タイガ」「左タイガ」、「バローン・タイガ」は「西タイガ」「右タイガ」と訳される。現地で方角を尋ねると、故地であるとされるトバ共和国のある「西」を「北」と言うことが多く、「北」を背にしたとき、シシギット川を中心にして、「ズーン・タイガ」は「東」に、「バローン・タイガ」は「西」に位置することになる。むろん、右、左としても方向は一致するが、ツァータンにとっての故地にあたる西方を「北」と呼んでいることなどを考慮して、「西タイガ」「東タイガ」と呼ぶのが適切だと考える。

4 トナカイが放牧から戻ってきたときには、各世帯が自分のトナカイを優先的に捉え、つなぐという点において、集団的トナカイ飼育を行う「ズーン・タイガ」グループも対個体的には世帯別に対応しているが、放牧行為など群れに対する行為は当番制であったり、共同で行うことが多い。これに対して「バローン・タイガ」グループでは、対群れ活動、対個体活動ともに世帯が単位で行われる。ただし、近年、「ズーン・タイガ」式の宿営地形成が「バローン・タイガ」の世帯に現れるなど変化が観察される。

5 社会主義時代は郡にそれぞれネグデルという集団農場があり、党中央指導部のもととはいえ、独自に生産計画、政策を決定していた。特にリンチンスフンベ郡ではツァガーンノール湖付近での製材所が出来るなど、トナカイ牧畜以外の職業に就く傾向が強まるなどの特徴が見られる。

6 тыба(tava)とトバ語では表記される。この綴りの最初のaはのどの奥で発音するaであり、多分にoに聞こえ勝ちである。ツァータンという呼称は、トナカイを飼育しながらタイガに居住する人々全般をモンゴル人たちが呼び慣わしてきたにすぎない。本来であれば、「トナカイを持つ者」を意味するツァータンという呼称は、タイガに住まず、トナカイも飼育しないが、タイガに起源を持つトバ人を範疇に含まないはずであるが、モンゴル国の民族学において、「ツァータン」という名称で一つの「民族」として定着しており、ヤスタン(ястан, yastan)、オグサータン(угсаатан, ogsaatan)の一つに数えられている。このヤスタンとは「同じ骨を持つ者」、オグサータンとは「同じ起源、系列を持つ者」を表すモンゴル語であり、「民族」「氏族」「種族」などと訳されることが多い。本研究では、タイガでトナカイ飼育に携わる集団を、ツァータンと呼ぶこととする。

7 本論文ではトナカイを所有する目的によって、「飼養民」と「牧民」とを区別したい。すなわち、輸送交通手段としての所有を第一の目的とし、主生業を狩猟採集活動などにおく場合を「飼養民」、食肉・乳利用を第一の目的とし、牧畜業を主生業とする場合を「牧民」とする。

8 当時、モンゴル人たちはタイガに住む者たちをさげすんでいたとも言われるが、タイガに住む者たちも、草原でウシやヒツジを飼うことを屈辱的なこととして捉えていたらしい。

9 モンゴルは1921年の革命後、活仏を元首とする君主制を敷いていたが、1924年の共和国宣言までにモンゴル人民政府はソビエトとの連携を強めながら、封建領主らの権利を縮小していくなど社会主義色を強めていった。こういった流れの中で、24年の活仏死去と同時に共和国を宣言するに至る。結果、当時活仏直轄領民их шавь (ih shavi) と呼ばれていた「ダルハドの窪み」の住民たちは、デルゲル・イフ・オーリン旗に組み込まれることとなった。この新しい行政区は首都ウランバートルに行政府を置くなど、モンゴル中央政府の統轄下にあった。

10 国境が閉鎖される以前も、「ダルハドの窪み」地域が主な交易先であったらしい。活仏に納めるための毛皮を所望していたダルハドら低地部に住むモンゴル人たちが交易相手であったのである。また、1910年頃には現在のソヨー・バリガード付近に商店が出来ており、交易は盛んに行われていたという。

11 国有家畜としてネグデルに供出することを言う。モンゴル語ではнийгэмчилэх(niigemchileh)といい、「社会化」と訳される。人々は自家所有の家畜を全て「社会化」したのではなく、自家所有家畜を手元に残している。この自家所有家畜をアムニー・マル(амны мал)と呼ぶ。

12 モンゴルではウマ、ラクダ、ウシ、ヤギ、ヒツジを「5種の家畜」と名付け、牧畜生活の基幹として位置づけている。ちょうど星形のそれぞれの先端にこれら家畜を配置して、「5つの先端の家畜(財産)」と言う。これにもう一種類増やして第6の家畜としてトナカイを掲げたのである。

13 1980年代まではトナカイを持つ人々を「ツァータン」と新聞記事では書き記しているが、1980年代以降は「ツァーチン」と書き表すようになっている。肥育型トナカイ牧畜への転換を目指して後、特にトナカイ牧畜に携わる者を「ツァーチン」と表記するようになっている。「ツァーチン」の「チン」とは、「アドーチン(ウマ飼い・ウマ牧民)」「ホニチン(ヒツジ飼い・ヒツジ牧民)」「テメーチン(ラクダ飼い・ラクダ牧民)」などと同様に、職業として「飼う者」を意味する言葉である。すなわち、1980年代に入って後、「トナカイ牧民」を作り出そうと意図していたことが伺える。

14 中心を意味するモンゴル語。郡の中心地、県の中心地などはいずれもトゥブと言い表される。

15 хээр (heer)とは草原を意味するモンゴル語であり、本来特に狩り場という意味を持たない。しかし、ツァータンをはじめ、「ダルハドの窪み」では、「ヘールへ行く」といえば、「狩りに行く」ことを意味する。また、「ヘールに泊まる」とは「野外に泊まる」を意味し、「ヘール」とは、通常の生活地域以外の場所を意味する言葉として使われている。

16 少数所有の場合は、宿営地に戻ってきたトナカイを一頭ずつ捕らえ、地面に横たえた丸太につなぐ。トナカイ個体に直接接触することより、柵を利用する牧畜よりも世話が密に行われるなど利点が多いという。できるだけ柵を利用しない方がよいと言うツァータンも多い。

17 この時代には、ノルマが科せられており、一冬の間に納めるべき毛皮の量などが決められていた。

18 トナカイが完全に私有化されるのは1995年9月のことで、これは他の草原家畜の私有化とくらべると3~4年遅れている。社会主義崩壊直後に国有トナカイは一部私有化されたが、1994年からはリースシステムを導入している。これは、リース代を支払ってトナカイを預かり、そのトナカイから得られる角、乳、仔を自分のものとするというシステムであった。しかし、これはほとんど機能できずに終わり、最終的には自分の飼育していたトナカイを買い取ることになり、トナカイが完全私有化されることとなった。

19 本稿では詳述はしないが、モンゴル人社会に組み込まれたことによって、生活地域が重なり合い、通婚も進み、また学校教育などによるモンゴル語の母語化など、社会主義時代に進められたモンゴル化の動きは諸分野に渡っている。

20 女性や子供は居住地に残り、家畜の世話をする働き手だけが家畜を追いながら移動を繰り返す牧畜方法をオトルという。

21 この飼育方法は群れ管理が緩くなるなどの問題が現地では指摘されており、古くからトナカイ飼育を続けてきた者たちは推奨しないやり方である。放牧などの群れ管理は宿営地を構成する世帯が集団で行うが、搾乳や肉利用、輸送騎乗用トナカイは各世帯が自家所有のトナカイを利用するため、所有頭数の少ない世帯がトナカイを増やすのは困難となっている。そもそも、ズーン・タイガでは世帯単位のトナカイ所有頭数が少ないという問題がある。

参考文献

Бадамхатан.С. Хөвөсгөлийн дархад ястан,Улаанбаатар,ШУХА,1965.
Бадамхатан.С. Хөвөсгөлийн цаатан ардын аж байдлын тойм,Улаанбаатар,ШУАХ,1962. 
Пүрэв.О. Улаан-уул сум Жаргалант амьдрал нэгдэл,Мөрөн,発行年不明.
Аюулсэд.Г. Хөвөсгөлийи цаа буга,Мөрөн,1996. 
Эрх чөлөө エルフチョロー紙(新聞)
稲村哲也,「「ツァータン」-モンゴル辺境部におけるトナカイ遊牧と市場経済化過程における社会変動」,『エコソフィア 第五号』,2000,101-118.