「トナカイ飼育民ツァータンの生活変化―“金”に翻弄されるタイガ社会―」
Reindeer herder Tsaatan's life change -Influence of the gold rush in Mongolian's Taiga area-
2012 北海道民族学 第8号 【研究ノート】
はじめに
モンゴル国北西部に「ツァータン(Tsaatan)」とモンゴル人に呼ばれる人々がいる。「ツァータンはトナカイを持つ者」という意味のモンゴル語でトバ(Tuva)と自称し、言語はトルコ系に分類される。彼らは森林地域でトナカイを飼育しながら生活しているが、社会主義時代以前より周辺モンゴル人との接触の中で言語や生活様式にモンゴルの影響を常に受け続けてきた。社会主義時代、さらには、社会主義崩壊直後に彼らがいかにして社会に適応し、生き残ってきたかについては、以前、拙論(注1)にて述べたとおりである。その当時はトナカイ飼育を主生業として、草原家畜飼育をすることで経済基盤を多重化し、資本主義社会への移行期を乗り切ろうとしている傾向について.述べ、ゆるやかにモンゴル化の道を歩むのではないかと予想したのだが、2010年の訪問時には、予想に反して、草原家畜や車、オートバイを所有するなど物質的に豊かになっていた。
本研究ノートは、資本主義安定期に入ってからのツァータン社会の変化を総括することを目的としている。資料としてはモンゴル国フブスグル(Khövsgöl)県ツァガーンノール(Tsagaan-nuur)郡西タイガ地域各所にて著者自身が以下の期間に行った聞き取り調査を元にしている。
1997年~1998年10/15~3/17:ジョログ(Jolog)川流域秋営地および冬営地、1998年7月:ミンゲボラグ(minge-bolag)夏営地、8月末~9月半ば:トルゴ(Torgo)川上流域秋営地、1999年9月半ば~10月半ば:ノホイントルゴイ(Nohoin-tolgoi)秋営地~ボルハヤグ(Bor-hayag)秋営地、2000年7月初め:ミンゲボラグ夏営地、2001年9月:フルンタイガ(Khürün-taiga)秋営地2002年9/5~9/27:ゴーラグ(Goolag)秋営地、2003年9/3~9/12:オラーンタイガ(Ulaan-taiga)秋営地、2004年2/10~2/27:ハルオスト(Khar osto)冬営地、3/20~3/23:ハルオスト冬営地、9/4~9/14:フルンタイガ秋営地、2005年4/28~5/9:イビディンエヘ(Ibidin-ekhe)春営地、2007年7/17~7/23:ミンゲボラグ、2009年9/7~9/12:ノゴーンゴル(Nogoon-gol)流域秋営地、12/28~12/31:ウフルティンアム(Ukhurtin am)上流域冬営地、2010年9/3~9/12:ゴーラグ秋営地、2011年5/1~5/5:シャンマグ(Shanmag)春営地、7/23~7/30:ゴーラグ夏営地
なお、本文中の地名や現地における呼称などのカタカナ表記の後ろの( )内は、特に示していない場合はモンゴル語からの転写表記とする。
1.資本主義経済安定期(2000年以降)のツァータン社会
モンゴル現代史において、いつの時代をもって、資本主義経済安定期とするかは異論も多いかと思う。しかし、2000年頃から観光客が徐々に増え始めるに従い観光産業が芽生え、それ以前と比べて、より利益を得やすい経済活動が盛んになっていく中で、新しく若い世帯が生まれるなど、ツァータン社会の変化がはっきりと現れ始めた。
ツァータンの新しい世帯は、社会主義時代末期に生まれ、そして社会主義崩壊後に成人した世代であった。ここでは、この新しい世帯を生み出すことを可能とした観光産業の成立過程から、ツァータンがモンゴル社会の中で経済的に優位な地位を得るに至るまでを概観することとする。
1-1支援活動の活発化と観光産業の芽生え
変化の発端は、国内外のツァータンへの関心の高まりにあったと言えるだろう。これらは外国人観光客、宣教師の来訪と国外からの援助活動の開始や、モンゴル国政府による少数民族保護政策や各種国内NGOによる支援活動の増加をもたらすことから始まった。これらは1990年代後半から始まり、2000年代に入って、様々に結果や成果をみせはじめている。
1990年代後半には既にモンゴルの民間NGOらによるツァータン支援は始まっていた。ツァータン協会(Tsaatan niigemleg1997年設立)、トナカイ基金(Tsaa boga san1999年設立)、タイガ自然協会(Taigin baigal niigemleg2001年設立)などがそれぞれに活動を開始している。いずれもツァータンの生活状況の向上、経済援助、教育支援、タイガの自然環境保護などを目的としている。
具体的な活動としては、小中学校の整備、教員派遣、学用品支給、大学など高等教育機関への進学援助、住居用帆布配布、食料や衣料の支援、医療提供などがあげられる他、ツァータンの代表たちを首都ウランバートルに招き、国会議員らと会わせ、直接陳情する機会を作るなどの活動もあった。ツァータンの窮状を訴える様々な活動に後押しされて、モンゴル国人権委員会においては2001年にツァータンの生活状況に関する研究調査費用が予算化され、2003年に現地調査、2005年に調査報告書がモンゴル語、英語で発行されるに至っている(注2)。
これらの支援活動は外国人観光客らの増加によって活発化してきた側面も持っている。モンゴル国内NGOはツァータンへの支援を開始するにあたり、その資金の多くを海外NGOやNPOなどに頼っていることが多い。ツァータンと関わること自体がビジネスチャンスを産むことに気がついたモンゴル人たちが増えた結果、国内でもその存在が話題になり、さらに多くのNGO、NPOらの活動開始を促したのである。
NGO、NPOによる支援以外に、宣教師らによる物質的援助も2000年前後から活発に行われるようになっている。彼らは、聖書と日用品、食料などを届ける他、サマースクールや健康診断などのサービスを行うなど、熱心な宣教活動を展開してきた。彼らの活動は本国に報告され、さらに多くの人々の関心を集め、観光客の増加や海外からの支援活動を促すのに大いに役立ったと考えられる。
外国人観光客の数に関する具体的な統計データはとれておらず、現地での聞き取りと経験によるしかないのだが、2000年前後より特に欧米からの観光客と出会う回数は極端に増え始めている。
しかし、外国人観光客が増え始めた当初は、それが直接ツァータン世帯に経済的利益をもたらしているわけではなかった。彼らは、純然たる伝統的習慣をもって外国人を受け入れており、彼ら側から観光客に滞在や食事に対する報酬を要求することは殆ど無かったのである。外国人観光客が来るようになった初期の頃は、麓に住むモンゴル人が輸送交通手段に馬を貸し出して利益を得ることの方が多かったのである。
1990年代後半から2000年にかけての時期、ツァータンが観光客相手に行ったビジネスと言えば、彫刻を施したトナカイ角の販売くらいであった。彫刻作品は5~50ドルで売買され、かつてより漢方薬原料として1kgあたり2~5ドル程度で袋角を売買してきたより遙かに利益を得られた。また夏期の袋角切断がもたらすトナカイの健康状態悪化を防ぎ、体力維持が可能になるという点で大いに歓迎されるビジネスとなった。トナカイ角彫刻が売れると知るや、どの世帯でも作るようになり、外国人が来たと聞くや、彫刻を持って販売に出かけるようになった。2010年に至っては、一夏の角彫刻売買の利益は世帯あたり500ドルとも3,000ドルとも言われ、夏期の収入としては相当な額となっている。
1-2増えるツァータン世帯
このように、ツァータンたちが国内外からの支援を受けるようになり、食料や日用品不足も解消され、トナカイ角彫刻売買による現金収入も得られるようになるなど、生活が安定し始めた2000年以降、ツァータン社会に起きた最初の変化はタイガ居住世帯の増加であった。
伝統的に族外婚制を取るモンゴル人と同様、トバ人の伝統習慣として同氏族間における婚姻はタブーとされており、人口の少ない彼らは周辺モンゴル人との婚姻の他に選択肢は無い。
しかし、モンゴル側のツァータンに対する偏見や差別意識は社会主義崩壊直後から顕著に観察され、モンゴル人との結婚は難しいと言われていた。タイガの麓に住むモンゴル人も、「タイガなんかに嫁にやりたくない」という気持ちを当たり前に持っていたのである。従って、どこから嫁を迎えるか、どこへ嫁に行くかという問題は90年代半ばのツァータンにとって大きな問題になっていた。
ところが、2000年前後あたりから始まった婚姻では、モンゴル女性を嫁に迎え、かつ主生活地域をタイガに置く世帯が増えたのである。さらには、ツァータン女性と結婚したモンゴル男性がタイガに住む例も出てきたのである。
社会主義崩壊直後の西タイガ地域で、モンゴル人配偶者を持つ世帯は一つも無かった。草原地域に居住地を移したツァータン男性がモンゴル女性を妻にしていた例が一件あるだけである。ところが、2000年から2011年の間に新しく11世帯が生まれ、ツァータン男性とモンゴル女性の結婚は6件、ツァータン同士の結婚が3件、モンゴル男性とツァータン女性の結婚が2件という状況にある。
モンゴル女性の言に寄れば、その理由はツァータンの経済的将来性の高さにあるらしい(注3)。つまり、タイガの麓でモンゴル人と結婚するより、ツァータンに嫁に行き、タイガに住むほうが経済的に安定した生活を送れる可能性が高いというのである。1990年代には、貧乏人扱いされていた彼らの方が、麓に住むモンゴル人よりもビジネスチャンスに恵まれている上に、黙っていても支援、援助を受けられることで、経済的に優位に立つようになったのである。
近年の支援の内容(注4)をみると、2000年から出産時に20万トゥグルク(tögrög)(注5)、2歳以下の子供に対して毎月12,000トゥグルクが支給されるようになった。さらに6億トゥグルクの予算が計上され、2008年には1世帯あたりヤギ10頭、2009年にはウマ2頭、太陽光パネル、蓄電バッテリー、ストーブ、小型モンゴルゲルとフェルト、2010年は80万トゥグルクの現金がそれぞれ支給されるなど手厚い支援が行われた。また、2009年から貧困撲滅基金からは所有草原家畜20頭以下の世帯に食料援助も行われた。所有家畜にトナカイは計上されないので、元々草原家畜の少ないツァータンのほぼ全世帯がこの食料援助を受けられる。以上のように、物資援助、経済支援などが頻繁に行われており、ツァータンであれば、これら全ての恩恵に浴することができるのである。
ツァータン世帯の増加にともなって宿営集団の規模は大きくなった。基本的に新世帯は独立しても、トナカイ群を分配してくれた親集団と居住域を同じくする傾向があるからである。この結果、実労働者人口は増え、複数生業を同時に並行して営めるようになった。また、トナカイ角彫刻売買が一般的になったことで夏期の袋角切断が行われなくなり、トナカイの健康状態がよくなったこともあって、トナカイの数は2000年代半ばから増加し始めた。2011年に至っては、1,500頭を超えるトナカイが飼育されるようになっている。このことは彼らのタイガ内での機動力の増大を意味し、さらなるビジネスチャンスを産むことにつながっている。
1-3 観光産業への積極的参加
このように様々に生活支援を受け、外国人観光客たちとの交流が進み、周辺に居住するモンゴル人たちに対して経済的優位に立ち、また資本主義経済原理を徐々に理解し始めたツァータンは、自分たちがツァータンであること、トナカイを飼っていること自体に大いに価値があることに気がついた。そして、観光客を積極的に効率よく受け入れていくことを希望し始めるに至った。
1990年代後半から2000年初頭の頃はタイガを訪問する観光客の多くは、ツァガーンノール郡にいるモンゴル人馬主たちと交渉し、ツァータンの宿営地を目指すことが多かった。多くの場合、馬主は利益を得るが、ツァータンが収入を得ることは稀であった。
そんな中、2007年ツァータンコミュニティー&ビジターセンター(TCVC.Tsaatan Community & Visitor’s Center)がアメリカの篤志家らの資金援助とモンゴルのNGOItgel基金、およびツァータンたちによって作られるに至った。このTCVCはツァガーンノール郡中心地に立ち、西タイガ、東タイガの全ツァータン世帯によって選ばれた職員が、NGO Itgel 基金の職員、海外からのボランティアスタッフらと常駐している。
センターの名はモンゴル語ではツァーチン・センター(Tsaachin tuv)とつけられ、トナカイ飼育者センターを意味する。トナカイを持ち、タイガに生活していなければメンバーにはなれない。
無線機がセンターに1機、東タイガ居住世帯の中に1機、西タイガ居住世帯の中に5機、それぞれ設置され、常に連絡を取り合い、旅行客規模や滞在希望にあわせて、機会均等に仕事を割り振るようになっている。ツァータンの収入は、馬やトナカイのレンタル代の80%で、残りはツァーチン・センター運営費および常駐職員の給与に充てられる。また、運営費の一部は銀行に積み立てられ、センターのメンバーであるツァータンに低利子で貸し出せるようになっている。
1-4 金鉱山の発見とトナカイ特需
このようにツァータンたちは、トナカイを所有し、タイガに暮らしているだけで、観光客からの収入をある程度見込めるという恵まれた状況になったが、さらにツァータンに莫大な現金収入をもたらす事件が2009年に起きた。金鉱脈の発見である。
この地域は社会主義時代以前より金鉱脈の存在が指摘されており、1990年代半ばには地質、鉱脈調査なども行われている。かつて露天掘りを行っていたという跡も、タイガ内に散見される。しかし、地面を掘ることを忌避する習慣を持つ彼らが金鉱脈を求めて探し回ることはなかった。
しかし、モンゴル国内では1997年頃から、ニンジャ(注6)と言われる金鉱夫たちが現れ、モンゴル各地で金鉱脈を掘っては転々とするようになった。このニンジャの正確な数は把握できておらず、4~5万人とも、10万人とも言われている。
そんな中で、2009年秋、西タイガ地域のトルゴ(Torgo)川がジョログ(Jolog)川に流れ込むあたりに大きな鉱脈が見つかった。この知らせを受けて、モンゴル全土からニンジャたちがタイガに押し寄せてきたのが2009年の冬である。わずか1ヶ月少しの瞬く間に知らせが広まり、2009年末には、厳冬期のタイガの中に500人を超えるニンジャが露天掘りをするに至っていた。また、2010年秋には1,000人とも5,000人とも言われるニンジャが集まっていると麓のモンゴル人たちは言っていた。
ツァータンの中には、金採掘に自ら参加する者も多少はいたのだが、彼らの多くは自分たちの土地を荒らしたという汚名を嫌う者が多かった。しかし、これらニンジャが押し寄せてきたことで、トナカイ特需が引き起こされ、ツァータンは大いに潤うこととなった。
すなわち、冬期の輸送交通手段としてトナカイの需要が高くなったのである。通常、冬期にトナカイを貸し出す機会は非常に少ない。マイナス50度にもいたるタイガに冬期に入る観光客はいないに等しく、麓のモンゴル人も殆どタイガには入らない。ごく少数のモンゴル人がツァータンに自己所有のトナカイを預けておき、冬期狩りにでかけることはあっても、これがツァータンの収入になることは無かった。また、トナカイは夏期には乗り物として利用できないため、トナカイの直接売買や毛皮や乳製品の売買(注8)、角彫刻売買以外に金銭を得られない家畜と考えられてきた。仮に観光客にトナカイを貸し出す場合でも1日1頭10,000トゥグルク程度である。
しかし、ニンジャの来訪によって、金鉱脈発見直後の冬は、トナカイ・レンタル料金は一日一頭100,000トゥグルクと従来の10倍に跳ね上がった。麓から最短ルートを使って金採掘現場に行ったとしても、道中1泊は免れず、往復分をレンタルするため、3泊4日のレンタルが最短単位となり、そうすると1回で400,000トゥグルクになる。しかも、荷物を積んで人間が乗った場合、一人あたり最低でも2頭のトナカイをレンタルしなければならない。見つかった金鉱脈がかなりの規模の鉱脈らしいという評判が広がるにつれ、先行投資としてトナカイ・レンタル料金を払ったとしても十分に利益があがると考えるニンジャは、出来るだけ早く現地入りするために我先にとトナカイをレンタルするようになったという。もちろん、中には、トナカイのレンタルを最低限に抑える、もしくはまったくの徒歩でタイガ入りをするニンジャもいるが、一度に30頭ものトナカイをレンタルして、現地での長期滞在のための日用品や食料を積み込んで行く者もいたという。ニンジャ側にしてみれば、十分に元が取れるとのことだった(注7)。さらに長期滞在のニンジャに諸物資を売る商人たちもタイガに入るようになり、トナカイの需要は高まる一方であった。
このトナカイ特需にツァータンは沸いた。2009年年末から2010年春にかけてニンジャは途絶えることなくタイガを訪れたのである。その結果、ツァータンたちは、わずか1週間や10日間、場合によっては、わずか2,3日で、1,000~3,000ドルを手にするようになったのである。西タイガ地域居住のツァータンのみならず、金採掘場から遠い東タイガのツァータンもトナカイを貸し出すために麓付近でニンジャを待ち構えるようにまでなった。また、ツァータンの中には、ニンジャ相手に商売をしようと酒を買い込んで現場に向かう者も現れたと聞く。
このニンジャのゴールド・ラッシュによるトナカイ特需は冬の間続いた。結果、ツァータンは潤った。自家用車を購入する者、バイクを新調する者、草原家畜を大量に購入した者など得た現金の使い方はそれぞれであったが、彼らの生活は物質面において飛躍的に豊かになったのである。
2.経済発展の落とし穴
このように国内外からの援助や支援、タイガ人口の増加による労働力の増大、外国人観光客の増加と組織的観光産業の展開、金鉱脈発見によるトナカイ特需といった追い風に乗って、2010年のツァータンの暮らしは、以前とは比べものにならないくらい豊かなものとなった。
しかし、観光産業の発展やニンジャによるトナカイ特需は、彼らがツァータンであるための最重要要素であるトナカイ飼育の目的や方法を変化させはじめた。ここからは、新世帯の出現と人口増加、観光産業の発展、ニンジャによるトナカイ特需がもたらした生活変化を概観していくこととする。
2-1 季節ツァータン化とモンゴル化
先にツァータン世帯が増えたことについては述べた。ところが新しく増えた世帯の殆どが、季節ツァータンとでも言うべき生活パターンを見せ始めている。すなわち観光客が訪れる夏期のみタイガの中で生活し、それ以外の時期は草原地域で暮らすのである。自分たちが世話をしない期間は親類にトナカイを預けるか、草原に移動する世帯同士でお互いに所有するトナカイを群にまとめてタイガに放置するようになっている。従来のツァータンの習慣では冬期の放牧はほぼ放置放牧を行い、群の所在や頭数の確認などを殆ど行わない。居住地付近に放置し、1週間に1,2回ほど群をまとめる作業を行うのが一般的である。放置放牧したとしても自分たちの住まいはタイガの中にある。しかし、この新しい放置放牧(注9)は、群をまとめるとしても1ヶ月に1度か2度程度、場合によっては春までの長期間にわたって放置し、自分は草原家畜と麓で暮らすようになっている。戸籍上はツァータンとして、居住地域はタイガであるとしながらも、その実、草原地域での生活の方が長くなっているのである。
先にあげた新しく出来た11世帯のうち、モンゴル人妻を持つ6世帯すべてが季節ツァータンとなっている。これは婚資として受け取った草原家畜が相当数いたことも無関係ではない。草原家畜とトナカイをタイガで一年中飼育することは不可能なのだ。結婚以前よりヤギを所有していた若者は、モンゴル人妻を娶るや婚資で得た草原家畜と併せて200頭を超える群を所有することとなり、タイガでの生活が困難になり、生活地域を草原地域に移さねばならなくなっている。
また彼らが草原地域に居を移す理由には児童の就学があげられる。筆者が調査したなかの2世帯では子供の就学以前は1年中タイガにいたのだが、就学を契機に主生活地域を草原地域に移すことになった。残り3世帯は結婚直後にはタイガに居たがモンゴル人妻の意向によって夏期以外は草原地域で暮らすようになっている。このような世帯の中には、夏期においても世帯主一人だけがタイガに出向き、家族は1年を通じて草原地域で生活するという場合もある。
このようにしてみると、妻をモンゴルから得た世帯は結果的に生活地域を草原に移していることがわかる。そして、生活域を草原に移した結果、ツァータン男性方の文化、すなわちトバ文化、特にトバ語は壊滅的なダメージを受けており、このような家庭の子供はトバ語を全く理解できなくなりはじめている。
こういったツァータン社会におけるモンゴル化の流れは、社会主義崩壊時の経済的困窮状態によってより加速していくだろうと、筆者も予想したし、ツァータン自身も感じていた。従って、経済的自立がトバ文化維持のために必要であると年長のトヴァ人たちの間で語られていたのだが、現在の経済的安定状態がモンゴル化を進めるとは誰も予想できなかった。
しかし、新しい傾向であるこのような季節ツァータンらでも、トナカイを飼っている状態を維持して、ツァータンという名称を保ち続けたいと希望している。ツァータンであるというだけで得られる利益が多くあるからである。現在も彼らは狩りに出かけるが、以前と比べると、狩りの目的自体も、レジャー性が高くなっているように見受けられる。かつてはタイガ生活を維持するのに必須の食料や換金可能物資の調達は狩猟によって支えられ、この狩猟活動を可能とするためにトナカイを所有していたのだが、現在では狩りに行かずとも草原家畜から十分に食料を得られるようになっているのである。彼らがトナカイを所有する最大の理由はもはやツァータンという名を持つことで受けられる支援や援助を期待することと、ツァーチン・センターのメンバー資格を維持することにある。
2-2 変わる営地選択基準と人間関係
観光産業がツァータンたちにもたらした利益は計り知れない。トナカイ角彫刻売買にはじまり、民宿(注10)経営、ツァーチン・センターからの仕事などは、自分たちがタイガに暮らし続ける以上、決して失われることのないビジネスのように考えているようだ。その結果、彼らは観光客を受け入れるために営地移動パターンを変え始めるなど、観光産業への過度の依存傾向にある。
まず、彼らは観光客からのアクセスがしやすいところに営地を構えることでより多くの観光客を受け入れ、収益を上げようとしはじめた。観光客の多くは7月から9月にかけてツァータンの夏営地、秋営地を訪問する傾向が強い。西タイガ地域の最良の夏営地であるミンゲボラグが観光客にはもっともアクセスしやすい場所であるが、できるだけ長くここに滞在し、移動先の秋営地もここから近いところに構えるようになっているのである。秋前期営地10は、従来であればジョログ川やジャムス川流域の中流域に流れ込む支流の水源地周辺に構えるのが常であった。まだ気温変化が激しい時期にできるだけ涼しい場所を選択する必要があるからである。(注11)
従って伝統的なやり方であれば8月半ば過ぎに移動が始まり、タイガの最も奥まったところに営地を構えるのが普通である。しかし、従来の秋前期営地は麓から足場の悪い湿地を2日から5日かけて行かねばならず、馬に不慣れな外国人観光客には厳しい行程である。ツァータンにしても、自分の馬を長時間使役することになるなど、負担が大きい。そのため、観光客受け入れのしやすい場所に秋前期営地を構えるようになったのだ。しかし、ツァガーンノール郡に近い側はオオカミが多かったり、ハエやカなどの害虫が多く、暑さや虫を嫌うトナカイにとって、よい営地とは言い難い。特に秋期は気候変化や気温の変化が激しいため、秋営地は数カ所を転々と変えるのが理想なのだが、それを行わなくなっている。現在、観光業への依存を高めた世帯が秋営地、冬営地としているシャンマグ(図1のD地域)地域は、以前利用していた地域(ジョログ川流域:図1のB地域)よりずっと狭い地域にあたる。さらに近年のトナカイの増加は、それ以前よりも広い牧地を必要とし、宿営集団間の距離は今まで以上に広がってしかるべきであるが、角彫刻売買に出向くのに利便性が高いと言うことで宿営集団間の距離は逆に短くなっている。
図1西タイガ地域における宿営地と移動ルート
すなわち、トナカイ頭数が増えたにも関わらず、以前よりもお互いに近い場所に営地を構え、移動頻度も減らし、営地選択においてもトナカイの健康を第一に考えたものではなくなっているのである。このことは、社会主義崩壊当時より、比較的大規模群を所有してきた世帯や年配のツァータンの間から問題視されており、彼らは、観光客の利便性や観光客誘致のための営地決定や移動ではなく、あくまでもトナカイの健康維持を第一とした移動を現在も続けている(図1のC-D間移動)。営地選択基準の変化による移動回数の減少や宿営集団間の近接、営地の草原側への接近は過放牧やオオカミによる被害を増やし、純粋にトナカイ飼育を考える場合、決して得策とは言えない。
ツァータン世帯の中で観光産業への依存度を特に高めている世帯は50頭前後の中規模トナカイ所有世帯である。また、彼らの草原家畜所有数が他と比べると少ないことも、彼らの観光産業への依存度や期待度の高さと無関係ではあるまい。
しかし、観光産業からの収益は必ずしも一定ではなく、実際には非常に不安定な収入源である。ツァーチン・センターは開業した2008年には100人以上の観光客を迎え入れたが、翌年は30人程度、その翌年2010年には10人と極端に減っている。これは観光客の数が減ったのではなく、客を取られて慌てた麓のモンゴル人たちによる外国人獲得競争にツァーチン・センターが対応できなかったことによる。従ってツァータンを訪れる外国人の数は大きく変わっていない。しかし、ツァーチン・センターを通さない場合、ツァータン側は馬レンタル代を得られないため、2011年の夏には、ツァーチン・センターを通さずにやってきた観光客の受け入れ拒否や、滞在費を巡るトラブルも起き始めている。
一方、モンゴル側はツァータンが受けているような支援や援助を受ける機会は少なく、また彼らを目指してくる観光客も殆ど居ない。従って、支援や援助に加えて観光産業でも利益を上げ始めたツァータンを快く思っていないモンゴル人も少なからずいる。これはモンゴル人だけでなく、トナカイを持たないが為にツァーチン・センターの活動に関われないトバ人も同様である。ツァータンが居住地を草原に近くしていることで、こういった摩擦は大きくなっているようだ。
2-3 トナカイ特需と失われた牧地
金鉱脈の発見によって、それまでは考えられなかったトナカイ特需が2009年の冬からはじまった。採掘場と麓を行き来するニンジャの輸送交通手段としてトナカイを貸し出し、ツァータンは大きな富を得た。
しかし、このトナカイ特需によって彼らはトナカイの放牧地を大きく失うことになってしまった。1990年の初頭以来、西タイガの宿営集団はジョログ川流域、もしくはジャムス川流域の上流域を春営地、冬営地、中流域および支流域を秋営地、ミンゲボラグという山頂盆地地域を夏営地として利用してきた。彼らは2~4年ほどジョログ川流域を利用した後、次はジャムス川流域をというように交互に利用することで、発育の遅いトナカイ苔の再生を促して利用してきた。社会主義以前のように宿営集団の規模が小さく、トナカイ所有頭数も20頭程度であったころは、今で言うオトル(otor)式(注13)移動を行っていたが、集団化や群の大規模化が進められる中で、このような移動パターン、土地利用が定着している。
ところが発見された金採掘場は、ジョログ川中流域にあたり、秋営地のある所である。ここが大量のニンジャ流入によって破壊されてしまった。ゴミや屎尿による汚染、物置小屋の物資の盗難、家畜泥棒の被害が続出したのである。2009年末にジョログ川上流域の採掘場へのちょうど中間地点で冬営地を構えていた家族は、途絶えることのないニンジャの来訪で営地周辺は汚され、家財道具も家畜も盗まれるなどしたために、1月早々に冬営地をニンジャたちの移動ルート上から離れた所へと移動させている。
また、トナカイをレンタルせず徒歩で採掘場へ向かうニンジャたちの後をオオカミがついて行くことが多く、ジョログ川流域にオオカミが入り込んでしまったことも、大きな問題となった。
こうして西タイガ居住世帯は、従来利用してきたジョログ川流域の牧地を失うこととなった。2010年現在、彼らはナリーンウブル(Nariin-ubur)-シャンマグ-ソールナグ(Soornag)-ゴーラグと結ぶルートを利用し始めた(図1のC-Dルート)(注14)。ここは、ジョログ川やジャムス川のような大きな河川が流れておらず、いくつもの小川や谷間、湖を繋いだルートである。ゴーラグを夏営地、秋営地とし、シャンマグを冬営地、春営地とするのだが、入り組んだ地形は規模の大きくなった群を管理するのには困難を伴う。このようにニンジャの流入はトナカイ飼育に適した限られた土地を奪うことになったのである。
しかし、トナカイ特需による高収入は2010年春をピークとした一時的なものであった。雪が溶け始める5月半ばからは馬が使われるようになったことと、環境保護のためのニンジャの取り締まりが始まったからである(注15)。従って、トナカイ特需は2010年初頭から4月頃までであった。連日の輸送でトナカイの疲弊がひどく、肥育期間のはずの冬に体力を消耗してしまっている現状を経験したツァータンは、これ以降、ニンジャとの関わりを殆ど持たないようになっている。結果、トナカイの過度の使役による疲弊は避けられることとなったが、彼らがニンジャたちによって貴重な放牧地を失ったことには変わりなく、未だにジョログ川流域の利用は出来ないままである。
3.まとめ
以上、著者自身が現地には行って調査を行った2000年前後から2010年頃にかけてのツァータン社会に起きた変化とその結果、もしくは影響について述べてきた。
彼らがトナカイを所有するツァータンであるが故に、多くのビジネスチャンスに恵まれたが、この経済的な成功が、トナカイを所有し続けること自体を困難なものとする可能性を内包していることは大きなジレンマとなっている。彼らのアイデンティティは、タイガに住むこととトナカイを所有することの二点に集約され、これを保持し続けることで、モンゴル化の速度は遅くなるだろうと著者にもまた他の研究者にも思われた。タイガと草原の自然環境の違いは、それほどまでに大きな境界線を作っているのである。タイガでの生活維持が出来れば、彼らはツァータンで有り続けられると、彼らの多くも考えている。
しかし、基本的にこの土地がモンゴル国の領土である以上、少数民族である彼らがモンゴル化していくのは止められない流れにある。モンゴル人を配偶者とした世帯は今後加速度を増しながらモンゴル化していくだろう。このままでは、その子供たちは間違いなくトバ語を解さなくなるだろう。トナカイ飼育の方法においても、伝統的トナカイ飼育方法は、その飼育目的が変化したことによって変化していく。中大規模群飼育になったことで柵利用が増え、また、人間との接触頻度の低い放置放牧の機会が増えていくことが予想される。基本的には個体管理だったトナカイ飼育が群管理、すなわちモンゴル式家畜管理方法に変わっていくだろう。ツァータン文化とも言うべきトバ文化を代表する独特の言語や生活様式は、物質的支援や経済発展だけでは保存できないようだ。
ツァータンが、ツァーチンとしてトナカイおよび自らを観光資源としてビジネスをしていくのか、それとも可能な限りモンゴル化に抵抗しながらタイガに住み続けるのか、今後も観察を続けていこうと思う。
注
1 西村2003 pp54-55.
2 үндэстний цөөнчийн эрх судлалгааны тайлаи,Улаанбаатар 2005.
3 西タイガ地域最多トナカイ所有世帯の長男と結婚した女性、およびこの女性の姉であり同じくツァータンと結婚した女性の言による。
4 いずれもツァータンに嫁入りした女性たちからの聞き取りによる。
5 1円=約15トゥグルク(2011年夏現在)。
6 大きなタライを背負った姿が映画「忍者タートルズ」のキャラクターに似ていることから、ニンジャと呼ばれている。
7 トナカイの乳製品売買は2010年頃から行われるようになった。以前は自己消費する量しか得られなかったが、トナカイが増えたことで新たなビジネスチャンスを生み出している。
8 2011年夏に偶然出会ったニンジャ経験者の話によれば、この金鉱脈に出向いて1週間で300~1000ドル相当の金を手に入れられたとのことであった。
9 冬期のトナカイ放牧の概要については西村 2005 pp28-29に詳細がある。
10 2005年頃から外国人旅行客はテントを自前で持ち込むことが多いのだが、景観保護のためにテントをはらせず、用意した宿泊用オルツに泊めて宿泊代を得る世帯が現れている。
11 秋期のトナカイ牧畜の概要については、西村 2005 pp26-28に詳細がある。
12 牧草や水の状況を見ながら、最低限の家財道具を持ち、牧夫のみが家畜を追いながら、小規模の移動を繰り返していく遊牧方法。夏期のゴビ地域や冬期~春期の草原地域などでよく見られる。
13 観光産業への依存度を高めた移動パターンをとる世帯は図1のA-D間移動を行っている。
14 取り締まりは始まったが、ニンジャが来なくなったわけではない。2011年夏時点で300~500人はいると言われている。
参考文献
Jessica Schutz,Morgan Keay
2008 Tsaatan Community and Visitor’s Center,Tsaatan Community &Visitor's Center
Монгол улсын хүний эрхийн үндэёний комисс
2005¯үндэсний цөөнхийн эрх судлгааны тайлан,Улаанбаатар.
С.Бадамхатан
1965 Хөвсгөлийн дархад ястан,ШУАХ.
1962 Хөвсгөлийн цаатан ардын аж ахуйн тойм,ШУАХ.
西村幹也
2003 「ポスト社会主義時代におけるトナカイ飼養民ツァータンの社会適応―モンゴル北部タイガ地域の事例―」『JCAS Occasional Paper no.20 スラブ・ユーラシア世界における国家とエスニシティⅡ』:pp.45-58.
2005「ツァータンのトナカイ飼育と管理方法―ポスト社会主義時代への対応のために―」『帯広大谷短期大学紀要』第45号:pp.21-32.