森の木々が美しくて…

  トナカイたちが可愛くて…

  人がみんな優しくて…

     何度でも行くたくなるところ…タイガ

トナカイ乳加工について

「モンゴル国タイガ地域のモンゴル化とトナカイ乳利用の変化 -西タイガ地域の事例報告-」
Changes and mongolization in the use of reindeer’s milk in the taiga region of Mongolia

日本語要旨(600文字)

モンゴル国北部タイガ地域ではトゥバ人によってトナカイ飼育が行われてきた。しかし、トナカイ飼育方法、利用方法、生活様式などは社会主義時代にモンゴル人の主導によって変化を余儀なくされてきた。組織的なモンゴル化への流れの中で彼らのアイデンティティはトナカイ飼育とタイガでの生活に依拠することが多かったが、社会主義崩壊後はモンゴル側からタイガ地域への積極的な関与をもたらし、トナカイ飼育の価値増大、トナカイ飼育者を指し示す名称も変化させながら、更には、トナカイの飼育方法、飼育目的をはじめ、タイガでの生活様式そのものを変え始めている。トナカイ乳加工においては、社会主義時代から保存用乳製品作りが奨励されるようになっていたが、資本主義移行後は、保存用乳製品の種類や量は増え、それらで現金収入を得るに至っている。本稿は小さな集団での事例であるが、モンゴル化という流れの中で、トナカイ飼育にモンゴル的な大規模群飼育方法の導入、それに伴った冬期の乳利用の完全放棄に至る過程を記すものである。

西村幹也
Mikiya Nishimura
NPO法人北方アジア文化交流センターしゃがぁ
キーワード;モンゴル、タイガ、トナカイ、乳製品、集団形成

 本稿はモンゴル国北部タイガ地域に居住するトゥバ人を中心としたトナカイ飼育集団の変化とトナカイ乳利用、加工方法の変化を概観し、トゥバ集団に対するモンゴル化のプロセスを考察することを目的としている。

調査地はモンゴル国フブスグル県ツァガーンノール郡西部、バローンタイガ(西タイガ)と呼ばれる地域で、1995年より2017年に至るまで断続的に行ったフィールドワークで得た情報を元にまとめてある。調査はS.バヤラー(1953-2013)を中心とした宿営集団に対する聞き取り、および観察を継続的に行った。この世帯は社会主義崩壊時に当該地域で最も多くトナカイを所有していたた調査対象とし1995年より訪問を続けている。非常にミクロな観察ではあるが、長期間にわたる観察経過を一事例として報告するものである。

なお、乳製品加工に関しては、彼らが何をどのように作り、言い表し、利用しているかを書き記す以上の知見を筆者は持っていないことご了承いただきたい。乳製品研究としての調査は今後に期待する。

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1.ツァータンからツァーチンへ

 モンゴル国北部タイガ地域に居住し、トナカイ飼育に従事してきた人々はトゥバもしくはウリヤンハイを自称としてきた。しかし、特にトナカイを飼育する点でモンゴル遊牧民とは大きく異なるため、1970年代初頭には、”トナカイ飼育者”を意味するツァーチンという言葉で地方の新聞紙上などによく現れるようになり、その後、社会主義崩壊直前の1980年代後半からはツァータンという言葉の方が一般的になった。ツァーチンが職業名を意味するのに対して、ツァータンは、”トナカイ持ち”を意味し、少々差別的な意味合いをもつ。また、モンゴル国内では、トゥバ人であるツァータンをモンゴル民族内の1集団として位置づけるなど、トゥバ人側からすれば認めがたいことが続いてきた1。にもかかわらず、現在、ツァータンという呼称はモンゴルでは定着し、住民票の「集団名」にツァータンと記載されるに至っている。

しかし、モンゴル語呼称を一方的に押しつけられることへの抵抗も起き始めた。2000年頃からタイガ地域を訪れる外国人が増え始め、2005年にはモンゴル国際人権委員会がタイガの現状に関するリーフレットを発行、また2008年には”ツァータン共同体およびビジターセンター”が設立されるなど国内外から注目されるようになった。このセンターはモンゴル語名を”ツァーチントゥブ”といい、”トナカイ飼育者センター”を意味する2。ここはトナカイ飼育者によって運営される旅行案内所、互助組織的な役割を持っていたが、メンバーはトナカイ飼育者に限られ、他集団に対する自分たちの差異化を強く意識し始めたのがこの時期からだと思われる。

また、この呼称に対する認識の変化やこだわりは、このころから増え始めた海外からの物資、金銭の援助対象や、モンゴル国政府によるトナカイ飼育者への生活補助金受給者を明確にする上で重要な転換点となったと考えて良いだろう。

2.注目されるタイガ

2009年秋頃からタイガ地域は金鉱山の発見によるゴールドラッシュを迎えた(西村2012 :60-69)。これ以前はトナカイ所有者に対する支援や援助は一時的な収入に過ぎず、継続的に再生産性の高い家畜を所有するモンゴル人との経済格差の逆転は望めなかった。しかし、このゴールドラッシュはこの関係を逆転させた。冬期唯一の交通輸送手段であるトナカイ貸出料は莫大な利益をもたらし、大型電化製品や車、バイクなどを購入できるに至った。車の購入は旅行会社に貸してレンタル料を得るなど長期にわたる現金収入の道を開いたのである。

この彼らの経済の急激な発展と、長期的な現金収入方法の獲得は、周辺モンゴル人側からみても、憧れる生活と考えられるに至る。かつてであれば、「タイガに嫁にやるなんてとんでもない」とモンゴル人が嫌ったトゥバ人との婚姻が2000年代後半にはモンゴル若者たちの憧れに変わったのである。

 このトゥバ人とモンゴル人の婚姻はそれまでのタイガの生活を大きく変えた。この両者の婚姻は、それぞれがタイガと草原から、婚資として家畜を持ち寄ることになる。タイガ側からすれば、馬、ラクダ、ウシ、ヤギ、ヒツジなど主に草原地域で飼育される草原家畜の世話のために生活地域を否応なく草原側に広げることになるのだ。経済的には豊かになるが、それら草原家畜管理にはそれまで以上の手間がかかる。違う性質の、しかも、人によっては、未知の家畜の世話をしなければならないのだ。

 この婚姻で生まれた新しい世帯には、いくつかの生活パターンが見て取れる。傾向として、世帯主がモンゴル系の場合には草原寄り、トゥバ系の場合にはタイガ寄りの居住地を構える生活になるのだが、いずれ詳細なデータを提示し、報告したいと思う。

3.タイギン・フンの誕生

 2001年以降、モンゴル人が婿なり、嫁なりとしてタイガに入るようになり、タイガの人口は増えた。

 そんな中で、トナカイを所有し、タイガに暮らす世帯に生活補助金が支給されるようになると、支給金目当てにトナカイを購入する人々が現れた。1頭でも2頭でもトナカイを持ち、夏の間だけでもタイガで暮らしていれば支給対象世帯と認められるため、トナカイ飼育の経験のない世帯までもが、特に夏期にはタイガに暮らすようになったのである。

 いつの頃からかはっきりとしたことは言えないのだが、このような状況の中で、1年間の多くの時間をトナカイと共にタイガに暮らしいるという人を「タイギン・フン」と呼び表すようになった。「タイガの人」という意味だ。そして、この言葉はタイガで冬を越した者、タイガの冬を知っている者を指す傾向にあるようだ。「あいつは冬を知らない。タイギン・フンではない」と言うのである。「タイガの冬を知るということは、タイガで凍えることだ」と、かつて年長者たちは言っていた。タイガで凍え、飢えたことのない者はタイガのことを知らないというのだ。

 この定義からすれば、出自は問題でない。また、所有するトナカイと草原家畜のバランスも問題にならない。その世帯の主が、タイガの生活をどこまで知っているかを周りの人々が判断して、タイギン・フンか否かが決まる。実にあいまいなカテゴリーだが、最近増えた支給金目当てにタイガ生活を始めた若者たちを快く思わない人々が自分たちこそが本物のトナカイ飼育者であるというために好んで使うが、これに対し、新参の若者たちも、タイギン・フンと名乗ることで古参のタイギン・フンと同格に扱われたいという気持ちがある。

 従って、タイギン・フンの中には、そう呼ばれるべき人々、また、そう呼ばれたい人々が混在して、それぞれが別の意味を持って使うようになっている。いずれにせよ、現地における、望ましいタイガ生活者、トナカイ飼育者を表象する呼び名であることはまちがいなく、今後、この呼称がどのように利用されていくのかは大いに興味をひくところだ。

4.変わる生活パターン

 以上、述べてきたように、現在、タイガのトナカイ飼育者はトゥバ系、モンゴル系の世帯主がそれぞれにタイギン・フンと名乗っている。そして、それぞれがもつ出自の違いやトナカイ飼育やタイガ生活の経験の違いはトナカイ飼育方法、利用方法、年間移動パターンなどに変化をもたらすに至った。

 特に、先祖代々、タイガでトナカイ飼育を行ってきた家系の者と結婚後にタイガ暮らしを始めた者の間ではそれぞれが知る家畜飼育方法、利用方法が違うのである。

 これは、男性が主に決定権を持つ年間移動および家畜放牧の方法と、女性が常に携わる家事や搾乳関連の方法においてそれぞれ観察することができる。

 すなわち、夫婦ともにトゥバ系の世帯、夫がトゥバ系で妻がモンゴル系の世帯、夫がモンゴル系で妻がトゥバ系の世帯、夫婦ともにモンゴル系の世帯で、変化の現れ方は様々に観察されるのだ。なお、これらすべてを詳述するのは別の機会に譲るとして、本稿では現在の移動パターンとその移動原理を指摘するにとどめることとする。

 社会主義崩壊直後から2005年までの間のトナカイ飼育は拙文(西村 2008:21-32)にて報告したが、基本的には春営地、夏営地、秋前期営地、秋中期営地、秋後期営地、冬営地を川の上下流域に構え、数年ごとに利用する川を変えるのが通常の移動パターンである。

 しかし、2010年頃から顕著になったのが、冬期にトナカイ群を放置する放牧方法の導入である。トナカイの移動に合わせて営地を短期間で移動させるオトル式移動3を行う世帯もわずかに残っているが、殆どの世帯は、宿営地より2~3日行程ほどのタイガの奥地へ群れを放置するようになった。

 1995年から調査を続けているトゥバ世帯の例をあげよう。彼らは1990年代当初より最も多くのトナカイを所有してきた生粋のタイギン・フンとして自他共に認められる人々である。いわゆる昔ながらの放牧・移動形式を残している集団である。

 この世帯はトゥバ人夫婦と4人の男子、2人の女子で構成されたが、現在(2017)は長男、次男、長女、次女が結婚して別所帯を構え、家長が亡くなって後(2013)、下の2人の男子が母親と暮らしており、5世帯に別れている。各世帯の構成は図1にまとめる。独立した世帯のうち、長女世帯と次男世帯は、別行動をすることもあるが、冬営地は実家と合流することが多い。もともと1つの群れにいたトナカイたちをまとめた方が管理しやすいからだそうだ。

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 これら5世帯は、冬期間、全世帯のトナカイをまとめて放牧に出す。タイガに冬営地を構えるのは実家と長女世帯と次男世帯、次女世帯で、長男世帯は麓で草原家畜を管理する。長男世帯は草原家畜を最も多く所有している。長女、次男世帯は夫婦ともにトゥバ人であり、婚資として草原家畜が増えていない。次女世帯は夫がモンゴル人であるが、草原家畜の所有は長男世帯と比べて少ない。従って、長女、次男、次女世帯は基本的に一年を通じてタイガ生活をしている。

長男世帯は妻が持参した草原家畜が多い他、4人の子どものうち3人が就学児童なため、9月の学期はじめには生活地域を草原地域へと移動させる。このときは、まだ馬はタイガ内で管理できる時期なので家畜の移動は行わない。雪が降り始める9月半ばを過ぎる頃、10月初頭、積雪前に家畜を移動させることが多い。家畜たちを麓の冬営地に移動させる頃にはトナカイたちをタイガに残る親類に預け、妻方の親戚に預けていた羊、山羊、ウシなどとタイガから移動させてきた自分の馬、および実家、兄弟たちの草原家畜の世話をまとめて行う。

 かつて就学児童がいなかった頃には4月頃に草原家畜を妻方の親類縁者に預け、自分たちはタイガの春営地でトナカイの出産管理を行っていた。子どもが就学した後は、夫が先行してタイガ入りし、学校が休みになる6月末くらいに家族全員でタイガの夏営地へと移動するようになった。この時、馬はタイガで管理できるようになるので夏営地に移動させる。夏期にはツーリスト受け入れの交通手段として馬を使うため、居住地付近で管理する方が便利なのだという。そして、再び学校が始まる頃に長男世帯は麓へ移動していく。

これに対して、7月後半から9月初頭の期間、ツーリストを受け入れやすい場所に営地を構え、それ以外の時期は草原地域に暮らす世帯がある。世帯主がモンゴル人の場合に多く見られるパターンだ。そもそも婚資で得たトナカイの数は少なく、一桁からせいぜい20頭前後の所有に留まっているが、ツーリスト受け入れ、トナカイ角彫刻の販売などのビジネスチャンスを生かすために、一時的にタイガで生活する世帯である。彼らの移動パターンは夏期をタイガ地域で暮らす以外は、草原地域のモンゴル人の移動パターンと変わらない。

このように、現在のタイガ地域における宿営地の移動パターンは大きく分けて、トナカイ管理を第1に考えた移動パターンとツーリスト受け入れを第1に考えた移動パターンが明確に区別できるようになった。そして、タイガを中心とするパターンには、冬期に従来通りトナカイ近くに暮らすパターンとトナカイをまとめて放置するパターンに分けられる。これらパターンは各世帯のトナカイ所有頭数、また宿営地集団全体のトナカイ群れの規模、就学児童の有無などを要因として柔軟に決定されているようだ。

5.トナカイ飼育方法・目的の変化

 以上に現在におけるタイギン・フンたちの移動パターンを述べたが、いずれの場合も冬期のトナカイ管理方法はかつてのそれと大きく異なっている。冬営地をタイガに構えたとしても、乗用トナカイ以外を営地周辺で管理しなくなったのである。かつてであれば、1週間に1、2度、トナカイたちを営地周辺に集めるなど群れが散らばらないようにしていたのだが、今は、群れの所在を確認する程度にしか管理しないのである。オオカミによる被害はない方が望ましいが、多少の被害はやむを得ないと考えるようになったなど、トナカイが唯一の所有財産であった時代からすれば、考えられないことだ。

 そして、所有する家畜が数においても種類においても増えたことで、タイギン・フンたちのトナカイを飼育する目的も利用方法も変化し始めた。

 主に交通輸送手段であり、可能であれば乳、肉を利用するのがトナカイ所有の本来の目的であった。ところが、馬の所有が進むと、トナカイは冬期のみの交通輸送手段となった。また、草原家畜を自分自身、もしくは親類縁者が持つようになったことで乳、肉を草原家畜から得られるようになった。結果、冬期の交通輸送手段、援助や支援の対象条件を満たすこと、観光産業への参入が飼育目的となったのである。

6.変わるトナカイ乳の価値

 移動パターンの変化、トナカイ飼育目的の変化は、トナカイ乳利用のあり方にも大きな影響を与えている。

 そもそものタイガでの食生活は基本的に狩猟採集漁労で得られる食物とトナカイから得られる肉と乳製品であった。社会主義時代以前はトナカイ所有規模が小さかったため、トナカイの食肉利用も得られる乳の量も非常に少なかったときく。

 トナカイ肉と乳の積極利用を目的に、1970年代半ばから大規模トナカイ飼育への転換が図られ、1980年代初頭にはトナカイ数も1000頭を超え、一定の成果を上げていることは当時の統計データをみると明らかである。1961年に「トナカイ乳で乳製品を作るアイデアが出された」という新聞記事4で新しい社会変化として紹介されていることなどから、推察するにトナカイ乳製品は、それまでは非常に少なかったか、この頃にモンゴルから導入された技術なのかもしれない5。しかし、これらの変革は社会主義崩壊と同時に崩壊し、トナカイ数は600頭前後に激減し、社会主義以前の生活様式への回帰が余儀なくされた。

 1990年代前半から後半にかけての社会主義崩壊直後から社会混乱期のトナカイ乳の利用はお茶に混ぜる、直接加熱して食す、余剰があれば保存用に加工するというものであった。保存用凝固乳を作れる家は1,2軒のみで、当時最も大規模群を所有していた世帯ですらほんのわずかな量しか作れず、お茶に入れて飲用するのが最も多い利用方法であった。1998年頃まではフガール[хөгөөр(huguur)] 6という革製袋に搾乳した乳を入れ、適宜容器を振って攪拌しながら乳を継ぎ足し続け、袋が1杯になったら日陰に吊してそのまま保存する様子はどの世帯でも目にするところだった。フガールに乳を入れるのは搾乳を行う6月から8月半ばくらいまでで、それを過ぎるとそのまま屋外に吊し、適宜お茶に混ぜて利用する。9月半ばにもなれば寒くなるため、屋外に吊したものは冷凍保存状態になる。利用時はまとめて袋を裂いて取り出した乳をまとめて溶かして容器に保存するか、袋ごと屋内に吊し溶かしながら利用するかのいずれかであった。時間が経つと酸味が増して独特の味になる。9月半ばにもなると搾乳量は減り始めるのだが、冬期に入っても搾乳可能なトナカイがいるかぎり、搾乳は続けていた。1990年代から2005年くらいまではどこの家にもフガールがあって、トナカイ乳を保存していたが、近年はみかけなくなっている。

 夏期は、潤沢に乳を得られる世帯では保存用乳製品を作っていたが、2000年頃までは、ミルクをそのまま加熱して食用するほうが多かった。加熱されたミルクは豆腐のように固まるので、それを器に入れてスプーンですくって、特に何も添加せず食す。

 そんな中、タイガでの生活、移動パターンが変わったことで、フガールが姿を消した。トナカイ乳を保存しなくなったのである。先に述べたように冬期、トナカイを営地から離れた場所に放置するようになると、雌トナカイを管理できなくなる。冬期、乳量が減るトナカイを敢えて搾乳せずとも他家畜の乳を潤沢に得られる状況になったのである。

 そして、乳および保存用乳製品は夏期に殆どを自家消費していたのだが、自家消費用乳製品を他家畜から得られるようになったことで、後述のホロードやドスなどのトナカイ乳製品を町に持ち込み、現金収入を得られるようになった。

 すなわち、生活基盤をトナカイだけに依存することがなくなったことで、トナカイ乳に希少価値を付与して利益化することが可能になったのである。

 トナカイの乳利用の変化は社会主義以前、社会主義時代、社会主義崩壊直後、資本主義発展期と時系列でそれぞれに特徴的である。すなわち、お茶に入れるか加熱したものを食べていた時代、草原家畜における乳利用に似せて保存食を多く作ろうとした時代、基本的にお茶と直接食用だが、可能であれば自家消費用保存食を作るようになった時代、自家消費より販売換金用に加工品を作るようになった時代と分けることが可能だろう。

7.トナカイ乳加工の現在

 これまでモンゴル系男性がタイガ地域に入ってきたことによって起きた移動パターンの変化とそれにともなうトナカイ乳利用の目的の変化を述べてきた。ここからは、モンゴル女性がタイガ地域に入ってきたことによって影響を受けた可能性のあるトナカイ乳加工の変化について述べたいと思う。

 モンゴル女性がタイガに入ってくる以前、社会主義時代に保存用乳製品利用がすでに始まっていた。しかし、社会主義崩壊後からしばらくの間、トゥバ女性たちが特に積極的に作らなかったこと、また現在でも積極的に作らない女性がトゥバ女性に多いなどから、乳製品の積極的利用がさほど定着しなかったのではいかと仮定してもいいかと思う。むろん、社会主義崩壊直後はトナカイへの依存度が高まり、かつ利用できる乳の量が少なかったことも考慮しなければならない。しかし、その製法を観察したとき、トゥバ女性とモンゴル女性の間でそれぞれに慣れ親しんだ乳製品に違いを感じずにいられない。

 これからトゥバ女性、モンゴル女性それぞれのトナカイ乳加工過程を比較してみようと思う。調査対象世帯は先に述べた家族を取り上げる。社会主義崩壊直前から直後、現在に至るまで、この地域で最も多くのトナカイ群れを所有し、最もトナカイ乳を利用しやすい状況にあった集団であり、子どもたちの婚姻パターンが異なりながらも、独立した後も行動をほぼ一緒にしているなど、ある程度の一定条件のなかで、それぞれの世帯の特徴の比較がしやすいからである。

7-1.トゥバ系トナカイ乳加工体系

冬期、トナカイ乳は少なく、フガールに保存されていた少し酸っぱくなった乳をお茶に入れて飲用するのみの利用方法であった。搾乳可能なトナカイを不定期に搾乳し、フガールに足して攪拌しながら使う。夏期は1日に3回程度の搾乳を行い、トナカイ1頭から200~500ccを1度の搾乳で得る。搾乳後、10ℓのミルク缶などに保存しておき、適宜加熱食用することが多く、アールシ[ааржы(aarshi)]7と彼らが呼ぶ保存用乳製品はわずかであった。アールシは作ったとしても、9月にはすでに食べ尽くしてしまうなど、保存を目的としつつも保存できる量を作ることは困難なようだった。アールシは搾乳した生乳を濾してゴミを取った後、鍋で加熱、凝固したものを加圧、脱水、乾燥させたものをいう。

すなわち、2000年以前のトゥバ世帯ではトナカイ乳の利用は①生のまま保存して茶に混ぜる、②加熱して直接食す、③濾過、加熱、加圧、乾燥させて保存する、というのが一般的であった。これを図2に示す。

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アールシという単語はモンゴル語のアーロール[ааруул(aarool)]の訳として彼らは使う。また辞書にはモンゴル語からの借用語とされている8。しかし、この地域ではアーロールは、生乳から脂肪分を分離した後、乳酸発酵させた酸乳(タラグ)を加熱、加圧、乾燥させてつくるものを指し、加熱しただけの乳から作る場合はホロード[хурууд(horood)]と呼んでいる。これらに相当するトゥバ語はホロド9になるが、調査地では丸い形のアールシを指す。ちなみに四角いものをバシタク[Быштак(bashtak)]と呼ぶが現地では聞かない呼称である。このことから、モンゴル語のアーロールとトゥバ語のアールシの間に、ズレが生じていることがわかる。さらにトゥバ語の辞書にはアールシのことを酸乳を濾して作った乳製品と訳しており、この地域での使い方が特殊であるようだ。このズレの原因は様々に推測されるが、筆者はトナカイ乳利用が社会主義時代にモンゴルの影響のもとに始められ、その際、間違った伝わり方をしたのではないかと考えている。さらに綿密な調査が必要であろう。

7-2.一般的なモンゴル系乳加工体系

小長谷はモンゴルの乳加工体系について「最初に乳脂肪分を抽出し、次に酸乳を利用しながら、凝固したタンパク質を抽出していくという加工プロセス」(小長谷1997:129-168)と述べているが、まさにその通りの乳加工を調査地のモンゴル人は行っている。これをまとめたのが図3である。世帯の所有する家畜の種類や群れの規模によって、必ずしもすべての乳製品を作るわけではないが、ウルム[өрөм(urum 乳脂肪分、クリーム)]、タラグ[тараг(tarag 酸乳、ヨーグルト)]、アーロールはほぼどこの家でも利用する乳製品として一般的だ。モンゴルの乳加工過程は1工程で1種類の乳製品を作り出し、分離されて残ったものを材料として次の乳製品を作る。生乳をお茶にいれるのでなければ脂肪分を分離してウルムを作り、残ったものを発酵させてタラグを作り、タラグの生産量が潤沢であれば、古くなったタラグからアーロールを作って保存するというように加工は進んでいく。

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図2と図3を比較すればモンゴル系乳加工過程の複雑さは一目瞭然であるが、明白な違いも見て取ることが出来よう。すなわち、生乳から乳脂肪分を分離するか否かが大きく違う。乳製品の製造類型として3つを石毛は上げているが(石毛 1997:100-101)、トナカイ乳加工体系はこのいずれにも合致しない。

この違いは得られる乳量と乳成分の違いや自然環境の違いを原因としているだろうと推察されるが、結論には至っていない。ただ、トナカイ乳の成分は他の家畜たちと比べて非常に特徴的であることは確かだ。トナカイ乳の成分を表1にあげたが、これをみれば、トナカイ乳が他家畜の乳と比較して、高ミネラルで、タンパク質と脂質が極端に高く、糖質が低いことがわかる。これより低糖質なトナカイ乳が寒冷なタイガ地域で乳酸発酵することは難しいのだろう。よって、乳酸発酵過程がトナカイ乳加工過程にはなくなり、酸乳はもちろん、その先の生成物を得ることは難しくなっていると考えられる。図には示していないが、モンゴル人たちは古くなった酸乳を加熱、蒸留して蒸留酒を製造するが、トナカイ乳からは蒸留酒は造れないというのはトゥバ系の人々からよく聞く話だった。

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7-3.新しいトナカイ乳加工体系

 さて、このようなトゥバ系乳加工とモンゴル系乳加工という違いがあるなかで、モンゴル女性たちのトナカイ乳加工への日常的関与の度合いの深化は調査対象の世帯では長男がモンゴル女性と結婚したことを契機に2000年から始まった。この宿営集団内において彼女は初めてのモンゴル系乳加工経験者である。彼女にトナカイの扱いと草原家畜の扱いに違いがあるかを問うと、搾乳のタイミングが違うだけで、それほど戸惑うことはないと言う。トナカイの生態的特徴に合わせた放牧、搾乳サイクル、これにともった生活、移動サイクルの違いはあるが、搾乳作業そのもの、その後の乳加工に関しては既知の経験で十分にまかなえるという。

 彼女は、トゥバ女性たちと同じ製法で保存用乳製品を作る。ここのトゥバ女性たちがアールシと呼ぶものだが、彼女に、これは何か?と聞くと、「ホロードだ」と即答した。彼女は、酸乳を凝固させたものがアーロール、非酸乳を凝固させたものをホロードと明確に区別している。「タラグが作れないから、ホロードしかできない」とはっきりと彼女は答える。この言説については、モンゴルの乳製品加工に関する多くの報告と一致しない点が指摘されるが、タイガの麓、ダルハド盆地で筆者は複数女性から聞いているので、それを聞いた通りを記すにとどめる。このねじれの原因が単なる彼女たちの言い間違いや誤解によるのか、この地域に広く使われる用法なのかは今後の研究にゆだねたい10

 さらに彼女はホロードを作る過程で分離されるシャルスー[шар сүү(shar suu)]を静置し、分離した脂肪分を手で混ぜながらモンゴル語ではシャルトス[шар тос(shar tos)]、黄色い脂と呼ぶ脂を取り出す。モンゴル系乳加工においてはきわめて一般的な乳製品だ。彼女は、「脂肪分が高いから作れるかもしれないと思って始めた」と言う。これは彼女の夫方のトゥバ系乳加工にはなかった乳製品である。彼女の新しい乳加工体系を図4に示す。

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 このシャルトス作りは2011年時点では、この集団のトゥバ女性たちの中で、次女だけが行っていた。シャルトスを調査地のトゥバ語ではドス11という。次女は、10代半ば頃から冬期は祖母と一緒に麓で草原家畜の世話にあたっていた。つまり、この家族の中で最も幼い頃から草原地域での生活を経験してきたことで、モンゴル系乳加工になじみがあったのかもしれない。さらに夫はモンゴル人である。これに対して、調査集団の長女の夫はトゥバ人だ。また、調査世帯の次男の嫁もトゥバ人だ。この両世帯は結婚時に持ち寄った婚資の多くはトナカイたちであり、長男世帯が所有するトナカイ群規模に遜色ないが、どちらの世帯も子どもが幼い。これは搾乳に従事する労働力規模に影響する。トナカイ所有規模はそう変わらなくても、搾乳労働力として戦力になる10歳以上の女児のいる長男世帯のようには乳を得られないのである。すなわちアールシの生産量も少なくなる。当然、ドスを作る余裕はない。比較的近い規模のトナカイ群れを所有しながら、年間を通じてほぼ行動を共にし、宿営地を形成する集団内の各世帯の状況をまとめると表2のようになる。この表からドスを作るか否かは、トナカイ所有規模には左右されず、夫婦のいずれかがモンゴル系であること、草原生活経験が長いことに関係していることは明らかだ。モンゴルの影響が薄いトゥバ女性にはドスはなじみのない乳製品だと言うことになる。

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 さらに、調査地でいうこのドスという単語が辞書になく、モンゴル語のシャルトスに該当すると思われるトゥバ語はウス[үс(us)]、もしくはサルジャク[саржаг(sarjag)]であることも見逃せない。このドスは、モンゴル語で脂を意味するトス[тос(tos)]からの借用語であると思われる。また、モンゴル語のホロードに対応するホロドではなく、アーロールに対応するアールシと呼んでいることもある程度納得がいく。調査地におけるトゥバ系トナカイ乳加工体系にはアールシもドスもそもそもなかった可能性を示しているのではないだろうか。つまり、トゥバ系トナカイ乳加工体系のモンゴル化は社会主義時代に始まりながらも、さほど定着してない、歴史の浅いものである可能性がある。

 とはいえ、トナカイ乳の希少性が観光産業の発展に後押しされる形で年々高まり、その加工品としてのアールシの商品価値は上がっている。4,5年前は町に持って行っても売れなかったのが、3年前頃から売れるようになった。この当時は500~700gのアールシが6000tgであった。これが今では10000tgに至った。それにともなう積極的なアールシ製造が可能になったのは、タイガ全体のモンゴル化という流れがあったからこそ、可能になっているのだといえよう。これからドスもまた、その希少性故に商品価値は高まると予想されるが、これへの対応がどのようにタイガ地域内で進むのかとても興味深い。

8.トゥバ文化の行方

 以上にタイガ地域を取り巻く社会状況の変化、および構成集団の変化、そしてそれらがもたらしたトナカイ乳利用の積極化について報告した。

社会主義時代に始まる圧倒的なモンゴル化、すなわち、モンゴル的遊牧形式、生活形式への同化の力が働くなかで、タイガ地域の自然環境の特殊性、およびトナカイの生態的特徴がある一定のブレーキの役割をしながら、それでもゆっくりとモンゴル化していく様子が見て取れる。タイガ側、すなわちトゥバ側が自分たちの独自性を頼りに成功を収めることによってモンゴル化を招き、同時に、それによって更に得られる経済的成功はトゥバの特異性を維持することに役立ちながらも、やはり、最終的にはモンゴル化は止められないというジレンマがあった。

自分たちの独自性を強調するために新しい集団を作ったが、それは自分たちをトゥバという言葉から切り離すことになり、モンゴル人の流入を招き、更に新しい呼称を生むに至った。これをもって、ある一定の経済的優位性を維持することが出来たが、それが更なるモンゴル人、モンゴル文化の流入を招くことになった。

モンゴル人との結婚は、多種家畜所有による経済的余裕をもたらすと同時に生活パターン、移動パターンの変化を余儀なきものとした。そして、その結果、トナカイ利用目的の変化を促し、乳利用方法を変えるに至ったのである。これら一連の変化はトナカイ乳自体の価値を見直す契機となり、モンゴル側からもたらされた乳加工方法は、さらなるトナカイ乳製品の付加価値を高めることになったのである。

トゥバ人たちが、自らをダルハドモンゴル人と呼ぶようになる時代がいずれ来ることはダルハド盆地の歴史を見れば明らかだ(Бадамхатан 1965)。しかし、そんな中で、トゥバ人、トゥバ文化がどのように圧倒的モンゴルに吸収されるのか、それともどのように形を変えて行くのか、とても興味深い。今回は、トナカイ飼育および乳製品に注目して、その変化していく様を追ったが、同様に考察するべき文化現象は非常に多い。生業に着目するのであれば狩猟採集漁労活動は、狩猟活動が禁止された現在、早急に調査分析する必要があるだろう。今後も、モンゴル化という文脈の中でトゥバの変化に注目していきたいと思う。

本稿は数年前に聞いた言説とそれから時間を経て現実に観察できた現象を元に考察を加えたが、多分に仮説に仮説を重ねた部分もある。しかし、今後の研究で批判されるべき、たたき台として残すべきが残せたなら幸いと思う。

脚注

  • モンゴルではツァータンヤスタン[ястан(yastan)と言われる。これは民族を意味するウンデステン[үндэстэн(undesten)]の下部集団を指し示す。トゥバ民族である彼らを表すには不適切である。
  • 2008年発行のリーフレットのタイトルは英語で、Tsaatan Comunity & Visitor Centerと書かれているが、モンゴル語ではЦаачин төв(Tsaachin tuv)と表記されている。
  • オトル[отор(otor)]とはよりよい草を求めて短期間で営地を変えながら移動を続ける放牧様式をいうモンゴル語。「追跡する」「ぶらぶらする」などの単語と関係があると思われる。
  • Эрх чөлөө紙 no35.フブスグル県中心都市ムルンにて発行されてきた新聞。
  • 嫁に来たモンゴル人女性の話によると、夫方の親戚に、「なんてたくさんのアールシをつくるの!」とびっくりされたという。製法に違いがあったのか否か、確認しなければならない点であろう。
  • хөгөөр (huguur) 表記からすればフグールと読むべき所だが、現地ではフガールという。この地域のモンゴル語は発話時に母音調和をしないことが多々ある。
  • ааржы (aarji)、辞書ではアールジとされているが、調査地ではアールシと発音しているように聞こえる。
  • トゥバァ語・日本語小辞典 中嶋善輝 東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所 2008
  • ホロドはкурут(korot)と書く。トゥバ語表記を読めばコロトというべき所だが、調査地ではホロドと発音されている。なお、前掲の辞書にはこれを乾燥凝乳と説明されており、非発酵乳から作る乳製品であるようだ。また、コロトはカザフ語のコルトと同じものを指しているように思えるが、カザフのコルトは酸乳で作るし、また塩も加えられる。他地域で草原家畜を飼育するトゥバ遊牧民の乳製品名称、および加工体系の吟味が必要であろう。
  • モンゴル語のホロードとは、хур + yyд (ホル オード)であろうと筆者は考えている。すなわち、ホルはたまったものを意味し、特に”脂肪で太った”などという表現に使われ、オードは複数を意味していることから、ホロードとは“たまった脂”などを意味していると考えられる。同様の解釈の可不可をアーロールにも試みているが適切な解釈が今のところ見つかっていない。
  • トゥバ語の表記不明。調査地で対象となるシャルトスをなんと呼ぶのかと尋ねたところ、dosとこたえдос(dos)と書いてくれたのだが、これは辞書に見当たらない。

引用文献

石毛直道

1997 「世界の中のモンゴルの乳食文化」、石井直道編『モンゴルの白いご馳走-大草原の贈り物「酸乳」の秘密』、チクマ秀版社、95-112頁.

小長谷有紀

1997 「加工体系からみたモンゴルの「白い食べ物」、石井直道編『モンゴルの白いご馳走-大草原の贈り物「酸乳」の秘密』、チクマ秀版社、29-168頁.

中嶋善輝

2008 『トゥバァ語・日本語小辞典』,東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所.

西村幹也

2008 「ツァータンのトナカイ飼育と管理方法」『帯広大谷短期大学紀要』45:21-32.

2012 「トナカイ飼育民ツァータンの生活変化”金”に翻弄されるタイガ社会」『北海道民族学』8:60-69.

Эрх чөлөө,1961,no35.

Бадамхатан.С

1965 Хөвсгөлийн дархад ястан,ШУАХ,Улаанбаатар.