森の木々が美しくて…

  トナカイたちが可愛くて…

  人がみんな優しくて…

     何度でも行くたくなるところ…タイガ

写真利用に関して

このwebサイト taiga.shagaa.com に掲載されている写真たちの著作権は撮影者西村幹也に帰属します。

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ただし…

幼稚園・保育園、小学校、中学校の授業などで一時的に利用する場合、
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社会の未来を担う人材教育であるはずの"子どもの教育"は社会の義務だと私は考えています。
ですから、特に義務教育期間の子どもの学習現場で使うものは、社会が負担するべきと考えます。
すなわち、行政が教育機関に対して、潤沢な資金を提供し、そこから、資料使用料であったり、講師料であったりを支出するべきものです。
私個人としても、そのような背景があって報酬を頂けるのであれば、有り難くちょうだいします。
ところが教育現場は厳しい運営が強いられ、様々に予算が削減されるなどしており、思ったように予算を使うことができないのが現実です。

そんなわけで、しゃがぁで主催している義務教育期間児童を対象とした学校などでのコンサートや馬頭琴体験会は、演奏者への報酬や運営経費としていただきますが、写真は…デジタル化しているものを渡すだけですから、無償で構わないと判断しました。有効利用していただければ幸いです。

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トナカイ乳加工について

「モンゴル国タイガ地域のモンゴル化とトナカイ乳利用の変化 -西タイガ地域の事例報告-」
Changes and mongolization in the use of reindeer’s milk in the taiga region of Mongolia

日本語要旨(600文字)

モンゴル国北部タイガ地域ではトゥバ人によってトナカイ飼育が行われてきた。しかし、トナカイ飼育方法、利用方法、生活様式などは社会主義時代にモンゴル人の主導によって変化を余儀なくされてきた。組織的なモンゴル化への流れの中で彼らのアイデンティティはトナカイ飼育とタイガでの生活に依拠することが多かったが、社会主義崩壊後はモンゴル側からタイガ地域への積極的な関与をもたらし、トナカイ飼育の価値増大、トナカイ飼育者を指し示す名称も変化させながら、更には、トナカイの飼育方法、飼育目的をはじめ、タイガでの生活様式そのものを変え始めている。トナカイ乳加工においては、社会主義時代から保存用乳製品作りが奨励されるようになっていたが、資本主義移行後は、保存用乳製品の種類や量は増え、それらで現金収入を得るに至っている。本稿は小さな集団での事例であるが、モンゴル化という流れの中で、トナカイ飼育にモンゴル的な大規模群飼育方法の導入、それに伴った冬期の乳利用の完全放棄に至る過程を記すものである。

西村幹也
Mikiya Nishimura
NPO法人北方アジア文化交流センターしゃがぁ
キーワード;モンゴル、タイガ、トナカイ、乳製品、集団形成

 本稿はモンゴル国北部タイガ地域に居住するトゥバ人を中心としたトナカイ飼育集団の変化とトナカイ乳利用、加工方法の変化を概観し、トゥバ集団に対するモンゴル化のプロセスを考察することを目的としている。

調査地はモンゴル国フブスグル県ツァガーンノール郡西部、バローンタイガ(西タイガ)と呼ばれる地域で、1995年より2017年に至るまで断続的に行ったフィールドワークで得た情報を元にまとめてある。調査はS.バヤラー(1953-2013)を中心とした宿営集団に対する聞き取り、および観察を継続的に行った。この世帯は社会主義崩壊時に当該地域で最も多くトナカイを所有していたた調査対象とし1995年より訪問を続けている。非常にミクロな観察ではあるが、長期間にわたる観察経過を一事例として報告するものである。

なお、乳製品加工に関しては、彼らが何をどのように作り、言い表し、利用しているかを書き記す以上の知見を筆者は持っていないことご了承いただきたい。乳製品研究としての調査は今後に期待する。

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1.ツァータンからツァーチンへ

 モンゴル国北部タイガ地域に居住し、トナカイ飼育に従事してきた人々はトゥバもしくはウリヤンハイを自称としてきた。しかし、特にトナカイを飼育する点でモンゴル遊牧民とは大きく異なるため、1970年代初頭には、”トナカイ飼育者”を意味するツァーチンという言葉で地方の新聞紙上などによく現れるようになり、その後、社会主義崩壊直前の1980年代後半からはツァータンという言葉の方が一般的になった。ツァーチンが職業名を意味するのに対して、ツァータンは、”トナカイ持ち”を意味し、少々差別的な意味合いをもつ。また、モンゴル国内では、トゥバ人であるツァータンをモンゴル民族内の1集団として位置づけるなど、トゥバ人側からすれば認めがたいことが続いてきた1。にもかかわらず、現在、ツァータンという呼称はモンゴルでは定着し、住民票の「集団名」にツァータンと記載されるに至っている。

しかし、モンゴル語呼称を一方的に押しつけられることへの抵抗も起き始めた。2000年頃からタイガ地域を訪れる外国人が増え始め、2005年にはモンゴル国際人権委員会がタイガの現状に関するリーフレットを発行、また2008年には”ツァータン共同体およびビジターセンター”が設立されるなど国内外から注目されるようになった。このセンターはモンゴル語名を”ツァーチントゥブ”といい、”トナカイ飼育者センター”を意味する2。ここはトナカイ飼育者によって運営される旅行案内所、互助組織的な役割を持っていたが、メンバーはトナカイ飼育者に限られ、他集団に対する自分たちの差異化を強く意識し始めたのがこの時期からだと思われる。

また、この呼称に対する認識の変化やこだわりは、このころから増え始めた海外からの物資、金銭の援助対象や、モンゴル国政府によるトナカイ飼育者への生活補助金受給者を明確にする上で重要な転換点となったと考えて良いだろう。

2.注目されるタイガ

2009年秋頃からタイガ地域は金鉱山の発見によるゴールドラッシュを迎えた(西村2012 :60-69)。これ以前はトナカイ所有者に対する支援や援助は一時的な収入に過ぎず、継続的に再生産性の高い家畜を所有するモンゴル人との経済格差の逆転は望めなかった。しかし、このゴールドラッシュはこの関係を逆転させた。冬期唯一の交通輸送手段であるトナカイ貸出料は莫大な利益をもたらし、大型電化製品や車、バイクなどを購入できるに至った。車の購入は旅行会社に貸してレンタル料を得るなど長期にわたる現金収入の道を開いたのである。

この彼らの経済の急激な発展と、長期的な現金収入方法の獲得は、周辺モンゴル人側からみても、憧れる生活と考えられるに至る。かつてであれば、「タイガに嫁にやるなんてとんでもない」とモンゴル人が嫌ったトゥバ人との婚姻が2000年代後半にはモンゴル若者たちの憧れに変わったのである。

 このトゥバ人とモンゴル人の婚姻はそれまでのタイガの生活を大きく変えた。この両者の婚姻は、それぞれがタイガと草原から、婚資として家畜を持ち寄ることになる。タイガ側からすれば、馬、ラクダ、ウシ、ヤギ、ヒツジなど主に草原地域で飼育される草原家畜の世話のために生活地域を否応なく草原側に広げることになるのだ。経済的には豊かになるが、それら草原家畜管理にはそれまで以上の手間がかかる。違う性質の、しかも、人によっては、未知の家畜の世話をしなければならないのだ。

 この婚姻で生まれた新しい世帯には、いくつかの生活パターンが見て取れる。傾向として、世帯主がモンゴル系の場合には草原寄り、トゥバ系の場合にはタイガ寄りの居住地を構える生活になるのだが、いずれ詳細なデータを提示し、報告したいと思う。

3.タイギン・フンの誕生

 2001年以降、モンゴル人が婿なり、嫁なりとしてタイガに入るようになり、タイガの人口は増えた。

 そんな中で、トナカイを所有し、タイガに暮らす世帯に生活補助金が支給されるようになると、支給金目当てにトナカイを購入する人々が現れた。1頭でも2頭でもトナカイを持ち、夏の間だけでもタイガで暮らしていれば支給対象世帯と認められるため、トナカイ飼育の経験のない世帯までもが、特に夏期にはタイガに暮らすようになったのである。

 いつの頃からかはっきりとしたことは言えないのだが、このような状況の中で、1年間の多くの時間をトナカイと共にタイガに暮らしいるという人を「タイギン・フン」と呼び表すようになった。「タイガの人」という意味だ。そして、この言葉はタイガで冬を越した者、タイガの冬を知っている者を指す傾向にあるようだ。「あいつは冬を知らない。タイギン・フンではない」と言うのである。「タイガの冬を知るということは、タイガで凍えることだ」と、かつて年長者たちは言っていた。タイガで凍え、飢えたことのない者はタイガのことを知らないというのだ。

 この定義からすれば、出自は問題でない。また、所有するトナカイと草原家畜のバランスも問題にならない。その世帯の主が、タイガの生活をどこまで知っているかを周りの人々が判断して、タイギン・フンか否かが決まる。実にあいまいなカテゴリーだが、最近増えた支給金目当てにタイガ生活を始めた若者たちを快く思わない人々が自分たちこそが本物のトナカイ飼育者であるというために好んで使うが、これに対し、新参の若者たちも、タイギン・フンと名乗ることで古参のタイギン・フンと同格に扱われたいという気持ちがある。

 従って、タイギン・フンの中には、そう呼ばれるべき人々、また、そう呼ばれたい人々が混在して、それぞれが別の意味を持って使うようになっている。いずれにせよ、現地における、望ましいタイガ生活者、トナカイ飼育者を表象する呼び名であることはまちがいなく、今後、この呼称がどのように利用されていくのかは大いに興味をひくところだ。

4.変わる生活パターン

 以上、述べてきたように、現在、タイガのトナカイ飼育者はトゥバ系、モンゴル系の世帯主がそれぞれにタイギン・フンと名乗っている。そして、それぞれがもつ出自の違いやトナカイ飼育やタイガ生活の経験の違いはトナカイ飼育方法、利用方法、年間移動パターンなどに変化をもたらすに至った。

 特に、先祖代々、タイガでトナカイ飼育を行ってきた家系の者と結婚後にタイガ暮らしを始めた者の間ではそれぞれが知る家畜飼育方法、利用方法が違うのである。

 これは、男性が主に決定権を持つ年間移動および家畜放牧の方法と、女性が常に携わる家事や搾乳関連の方法においてそれぞれ観察することができる。

 すなわち、夫婦ともにトゥバ系の世帯、夫がトゥバ系で妻がモンゴル系の世帯、夫がモンゴル系で妻がトゥバ系の世帯、夫婦ともにモンゴル系の世帯で、変化の現れ方は様々に観察されるのだ。なお、これらすべてを詳述するのは別の機会に譲るとして、本稿では現在の移動パターンとその移動原理を指摘するにとどめることとする。

 社会主義崩壊直後から2005年までの間のトナカイ飼育は拙文(西村 2008:21-32)にて報告したが、基本的には春営地、夏営地、秋前期営地、秋中期営地、秋後期営地、冬営地を川の上下流域に構え、数年ごとに利用する川を変えるのが通常の移動パターンである。

 しかし、2010年頃から顕著になったのが、冬期にトナカイ群を放置する放牧方法の導入である。トナカイの移動に合わせて営地を短期間で移動させるオトル式移動3を行う世帯もわずかに残っているが、殆どの世帯は、宿営地より2~3日行程ほどのタイガの奥地へ群れを放置するようになった。

 1995年から調査を続けているトゥバ世帯の例をあげよう。彼らは1990年代当初より最も多くのトナカイを所有してきた生粋のタイギン・フンとして自他共に認められる人々である。いわゆる昔ながらの放牧・移動形式を残している集団である。

 この世帯はトゥバ人夫婦と4人の男子、2人の女子で構成されたが、現在(2017)は長男、次男、長女、次女が結婚して別所帯を構え、家長が亡くなって後(2013)、下の2人の男子が母親と暮らしており、5世帯に別れている。各世帯の構成は図1にまとめる。独立した世帯のうち、長女世帯と次男世帯は、別行動をすることもあるが、冬営地は実家と合流することが多い。もともと1つの群れにいたトナカイたちをまとめた方が管理しやすいからだそうだ。

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 これら5世帯は、冬期間、全世帯のトナカイをまとめて放牧に出す。タイガに冬営地を構えるのは実家と長女世帯と次男世帯、次女世帯で、長男世帯は麓で草原家畜を管理する。長男世帯は草原家畜を最も多く所有している。長女、次男世帯は夫婦ともにトゥバ人であり、婚資として草原家畜が増えていない。次女世帯は夫がモンゴル人であるが、草原家畜の所有は長男世帯と比べて少ない。従って、長女、次男、次女世帯は基本的に一年を通じてタイガ生活をしている。

長男世帯は妻が持参した草原家畜が多い他、4人の子どものうち3人が就学児童なため、9月の学期はじめには生活地域を草原地域へと移動させる。このときは、まだ馬はタイガ内で管理できる時期なので家畜の移動は行わない。雪が降り始める9月半ばを過ぎる頃、10月初頭、積雪前に家畜を移動させることが多い。家畜たちを麓の冬営地に移動させる頃にはトナカイたちをタイガに残る親類に預け、妻方の親戚に預けていた羊、山羊、ウシなどとタイガから移動させてきた自分の馬、および実家、兄弟たちの草原家畜の世話をまとめて行う。

 かつて就学児童がいなかった頃には4月頃に草原家畜を妻方の親類縁者に預け、自分たちはタイガの春営地でトナカイの出産管理を行っていた。子どもが就学した後は、夫が先行してタイガ入りし、学校が休みになる6月末くらいに家族全員でタイガの夏営地へと移動するようになった。この時、馬はタイガで管理できるようになるので夏営地に移動させる。夏期にはツーリスト受け入れの交通手段として馬を使うため、居住地付近で管理する方が便利なのだという。そして、再び学校が始まる頃に長男世帯は麓へ移動していく。

これに対して、7月後半から9月初頭の期間、ツーリストを受け入れやすい場所に営地を構え、それ以外の時期は草原地域に暮らす世帯がある。世帯主がモンゴル人の場合に多く見られるパターンだ。そもそも婚資で得たトナカイの数は少なく、一桁からせいぜい20頭前後の所有に留まっているが、ツーリスト受け入れ、トナカイ角彫刻の販売などのビジネスチャンスを生かすために、一時的にタイガで生活する世帯である。彼らの移動パターンは夏期をタイガ地域で暮らす以外は、草原地域のモンゴル人の移動パターンと変わらない。

このように、現在のタイガ地域における宿営地の移動パターンは大きく分けて、トナカイ管理を第1に考えた移動パターンとツーリスト受け入れを第1に考えた移動パターンが明確に区別できるようになった。そして、タイガを中心とするパターンには、冬期に従来通りトナカイ近くに暮らすパターンとトナカイをまとめて放置するパターンに分けられる。これらパターンは各世帯のトナカイ所有頭数、また宿営地集団全体のトナカイ群れの規模、就学児童の有無などを要因として柔軟に決定されているようだ。

5.トナカイ飼育方法・目的の変化

 以上に現在におけるタイギン・フンたちの移動パターンを述べたが、いずれの場合も冬期のトナカイ管理方法はかつてのそれと大きく異なっている。冬営地をタイガに構えたとしても、乗用トナカイ以外を営地周辺で管理しなくなったのである。かつてであれば、1週間に1、2度、トナカイたちを営地周辺に集めるなど群れが散らばらないようにしていたのだが、今は、群れの所在を確認する程度にしか管理しないのである。オオカミによる被害はない方が望ましいが、多少の被害はやむを得ないと考えるようになったなど、トナカイが唯一の所有財産であった時代からすれば、考えられないことだ。

 そして、所有する家畜が数においても種類においても増えたことで、タイギン・フンたちのトナカイを飼育する目的も利用方法も変化し始めた。

 主に交通輸送手段であり、可能であれば乳、肉を利用するのがトナカイ所有の本来の目的であった。ところが、馬の所有が進むと、トナカイは冬期のみの交通輸送手段となった。また、草原家畜を自分自身、もしくは親類縁者が持つようになったことで乳、肉を草原家畜から得られるようになった。結果、冬期の交通輸送手段、援助や支援の対象条件を満たすこと、観光産業への参入が飼育目的となったのである。

6.変わるトナカイ乳の価値

 移動パターンの変化、トナカイ飼育目的の変化は、トナカイ乳利用のあり方にも大きな影響を与えている。

 そもそものタイガでの食生活は基本的に狩猟採集漁労で得られる食物とトナカイから得られる肉と乳製品であった。社会主義時代以前はトナカイ所有規模が小さかったため、トナカイの食肉利用も得られる乳の量も非常に少なかったときく。

 トナカイ肉と乳の積極利用を目的に、1970年代半ばから大規模トナカイ飼育への転換が図られ、1980年代初頭にはトナカイ数も1000頭を超え、一定の成果を上げていることは当時の統計データをみると明らかである。1961年に「トナカイ乳で乳製品を作るアイデアが出された」という新聞記事4で新しい社会変化として紹介されていることなどから、推察するにトナカイ乳製品は、それまでは非常に少なかったか、この頃にモンゴルから導入された技術なのかもしれない5。しかし、これらの変革は社会主義崩壊と同時に崩壊し、トナカイ数は600頭前後に激減し、社会主義以前の生活様式への回帰が余儀なくされた。

 1990年代前半から後半にかけての社会主義崩壊直後から社会混乱期のトナカイ乳の利用はお茶に混ぜる、直接加熱して食す、余剰があれば保存用に加工するというものであった。保存用凝固乳を作れる家は1,2軒のみで、当時最も大規模群を所有していた世帯ですらほんのわずかな量しか作れず、お茶に入れて飲用するのが最も多い利用方法であった。1998年頃まではフガール[хөгөөр(huguur)] 6という革製袋に搾乳した乳を入れ、適宜容器を振って攪拌しながら乳を継ぎ足し続け、袋が1杯になったら日陰に吊してそのまま保存する様子はどの世帯でも目にするところだった。フガールに乳を入れるのは搾乳を行う6月から8月半ばくらいまでで、それを過ぎるとそのまま屋外に吊し、適宜お茶に混ぜて利用する。9月半ばにもなれば寒くなるため、屋外に吊したものは冷凍保存状態になる。利用時はまとめて袋を裂いて取り出した乳をまとめて溶かして容器に保存するか、袋ごと屋内に吊し溶かしながら利用するかのいずれかであった。時間が経つと酸味が増して独特の味になる。9月半ばにもなると搾乳量は減り始めるのだが、冬期に入っても搾乳可能なトナカイがいるかぎり、搾乳は続けていた。1990年代から2005年くらいまではどこの家にもフガールがあって、トナカイ乳を保存していたが、近年はみかけなくなっている。

 夏期は、潤沢に乳を得られる世帯では保存用乳製品を作っていたが、2000年頃までは、ミルクをそのまま加熱して食用するほうが多かった。加熱されたミルクは豆腐のように固まるので、それを器に入れてスプーンですくって、特に何も添加せず食す。

 そんな中、タイガでの生活、移動パターンが変わったことで、フガールが姿を消した。トナカイ乳を保存しなくなったのである。先に述べたように冬期、トナカイを営地から離れた場所に放置するようになると、雌トナカイを管理できなくなる。冬期、乳量が減るトナカイを敢えて搾乳せずとも他家畜の乳を潤沢に得られる状況になったのである。

 そして、乳および保存用乳製品は夏期に殆どを自家消費していたのだが、自家消費用乳製品を他家畜から得られるようになったことで、後述のホロードやドスなどのトナカイ乳製品を町に持ち込み、現金収入を得られるようになった。

 すなわち、生活基盤をトナカイだけに依存することがなくなったことで、トナカイ乳に希少価値を付与して利益化することが可能になったのである。

 トナカイの乳利用の変化は社会主義以前、社会主義時代、社会主義崩壊直後、資本主義発展期と時系列でそれぞれに特徴的である。すなわち、お茶に入れるか加熱したものを食べていた時代、草原家畜における乳利用に似せて保存食を多く作ろうとした時代、基本的にお茶と直接食用だが、可能であれば自家消費用保存食を作るようになった時代、自家消費より販売換金用に加工品を作るようになった時代と分けることが可能だろう。

7.トナカイ乳加工の現在

 これまでモンゴル系男性がタイガ地域に入ってきたことによって起きた移動パターンの変化とそれにともなうトナカイ乳利用の目的の変化を述べてきた。ここからは、モンゴル女性がタイガ地域に入ってきたことによって影響を受けた可能性のあるトナカイ乳加工の変化について述べたいと思う。

 モンゴル女性がタイガに入ってくる以前、社会主義時代に保存用乳製品利用がすでに始まっていた。しかし、社会主義崩壊後からしばらくの間、トゥバ女性たちが特に積極的に作らなかったこと、また現在でも積極的に作らない女性がトゥバ女性に多いなどから、乳製品の積極的利用がさほど定着しなかったのではいかと仮定してもいいかと思う。むろん、社会主義崩壊直後はトナカイへの依存度が高まり、かつ利用できる乳の量が少なかったことも考慮しなければならない。しかし、その製法を観察したとき、トゥバ女性とモンゴル女性の間でそれぞれに慣れ親しんだ乳製品に違いを感じずにいられない。

 これからトゥバ女性、モンゴル女性それぞれのトナカイ乳加工過程を比較してみようと思う。調査対象世帯は先に述べた家族を取り上げる。社会主義崩壊直前から直後、現在に至るまで、この地域で最も多くのトナカイ群れを所有し、最もトナカイ乳を利用しやすい状況にあった集団であり、子どもたちの婚姻パターンが異なりながらも、独立した後も行動をほぼ一緒にしているなど、ある程度の一定条件のなかで、それぞれの世帯の特徴の比較がしやすいからである。

7-1.トゥバ系トナカイ乳加工体系

冬期、トナカイ乳は少なく、フガールに保存されていた少し酸っぱくなった乳をお茶に入れて飲用するのみの利用方法であった。搾乳可能なトナカイを不定期に搾乳し、フガールに足して攪拌しながら使う。夏期は1日に3回程度の搾乳を行い、トナカイ1頭から200~500ccを1度の搾乳で得る。搾乳後、10ℓのミルク缶などに保存しておき、適宜加熱食用することが多く、アールシ[ааржы(aarshi)]7と彼らが呼ぶ保存用乳製品はわずかであった。アールシは作ったとしても、9月にはすでに食べ尽くしてしまうなど、保存を目的としつつも保存できる量を作ることは困難なようだった。アールシは搾乳した生乳を濾してゴミを取った後、鍋で加熱、凝固したものを加圧、脱水、乾燥させたものをいう。

すなわち、2000年以前のトゥバ世帯ではトナカイ乳の利用は①生のまま保存して茶に混ぜる、②加熱して直接食す、③濾過、加熱、加圧、乾燥させて保存する、というのが一般的であった。これを図2に示す。

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アールシという単語はモンゴル語のアーロール[ааруул(aarool)]の訳として彼らは使う。また辞書にはモンゴル語からの借用語とされている8。しかし、この地域ではアーロールは、生乳から脂肪分を分離した後、乳酸発酵させた酸乳(タラグ)を加熱、加圧、乾燥させてつくるものを指し、加熱しただけの乳から作る場合はホロード[хурууд(horood)]と呼んでいる。これらに相当するトゥバ語はホロド9になるが、調査地では丸い形のアールシを指す。ちなみに四角いものをバシタク[Быштак(bashtak)]と呼ぶが現地では聞かない呼称である。このことから、モンゴル語のアーロールとトゥバ語のアールシの間に、ズレが生じていることがわかる。さらにトゥバ語の辞書にはアールシのことを酸乳を濾して作った乳製品と訳しており、この地域での使い方が特殊であるようだ。このズレの原因は様々に推測されるが、筆者はトナカイ乳利用が社会主義時代にモンゴルの影響のもとに始められ、その際、間違った伝わり方をしたのではないかと考えている。さらに綿密な調査が必要であろう。

7-2.一般的なモンゴル系乳加工体系

小長谷はモンゴルの乳加工体系について「最初に乳脂肪分を抽出し、次に酸乳を利用しながら、凝固したタンパク質を抽出していくという加工プロセス」(小長谷1997:129-168)と述べているが、まさにその通りの乳加工を調査地のモンゴル人は行っている。これをまとめたのが図3である。世帯の所有する家畜の種類や群れの規模によって、必ずしもすべての乳製品を作るわけではないが、ウルム[өрөм(urum 乳脂肪分、クリーム)]、タラグ[тараг(tarag 酸乳、ヨーグルト)]、アーロールはほぼどこの家でも利用する乳製品として一般的だ。モンゴルの乳加工過程は1工程で1種類の乳製品を作り出し、分離されて残ったものを材料として次の乳製品を作る。生乳をお茶にいれるのでなければ脂肪分を分離してウルムを作り、残ったものを発酵させてタラグを作り、タラグの生産量が潤沢であれば、古くなったタラグからアーロールを作って保存するというように加工は進んでいく。

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図2と図3を比較すればモンゴル系乳加工過程の複雑さは一目瞭然であるが、明白な違いも見て取ることが出来よう。すなわち、生乳から乳脂肪分を分離するか否かが大きく違う。乳製品の製造類型として3つを石毛は上げているが(石毛 1997:100-101)、トナカイ乳加工体系はこのいずれにも合致しない。

この違いは得られる乳量と乳成分の違いや自然環境の違いを原因としているだろうと推察されるが、結論には至っていない。ただ、トナカイ乳の成分は他の家畜たちと比べて非常に特徴的であることは確かだ。トナカイ乳の成分を表1にあげたが、これをみれば、トナカイ乳が他家畜の乳と比較して、高ミネラルで、タンパク質と脂質が極端に高く、糖質が低いことがわかる。これより低糖質なトナカイ乳が寒冷なタイガ地域で乳酸発酵することは難しいのだろう。よって、乳酸発酵過程がトナカイ乳加工過程にはなくなり、酸乳はもちろん、その先の生成物を得ることは難しくなっていると考えられる。図には示していないが、モンゴル人たちは古くなった酸乳を加熱、蒸留して蒸留酒を製造するが、トナカイ乳からは蒸留酒は造れないというのはトゥバ系の人々からよく聞く話だった。

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7-3.新しいトナカイ乳加工体系

 さて、このようなトゥバ系乳加工とモンゴル系乳加工という違いがあるなかで、モンゴル女性たちのトナカイ乳加工への日常的関与の度合いの深化は調査対象の世帯では長男がモンゴル女性と結婚したことを契機に2000年から始まった。この宿営集団内において彼女は初めてのモンゴル系乳加工経験者である。彼女にトナカイの扱いと草原家畜の扱いに違いがあるかを問うと、搾乳のタイミングが違うだけで、それほど戸惑うことはないと言う。トナカイの生態的特徴に合わせた放牧、搾乳サイクル、これにともった生活、移動サイクルの違いはあるが、搾乳作業そのもの、その後の乳加工に関しては既知の経験で十分にまかなえるという。

 彼女は、トゥバ女性たちと同じ製法で保存用乳製品を作る。ここのトゥバ女性たちがアールシと呼ぶものだが、彼女に、これは何か?と聞くと、「ホロードだ」と即答した。彼女は、酸乳を凝固させたものがアーロール、非酸乳を凝固させたものをホロードと明確に区別している。「タラグが作れないから、ホロードしかできない」とはっきりと彼女は答える。この言説については、モンゴルの乳製品加工に関する多くの報告と一致しない点が指摘されるが、タイガの麓、ダルハド盆地で筆者は複数女性から聞いているので、それを聞いた通りを記すにとどめる。このねじれの原因が単なる彼女たちの言い間違いや誤解によるのか、この地域に広く使われる用法なのかは今後の研究にゆだねたい10

 さらに彼女はホロードを作る過程で分離されるシャルスー[шар сүү(shar suu)]を静置し、分離した脂肪分を手で混ぜながらモンゴル語ではシャルトス[шар тос(shar tos)]、黄色い脂と呼ぶ脂を取り出す。モンゴル系乳加工においてはきわめて一般的な乳製品だ。彼女は、「脂肪分が高いから作れるかもしれないと思って始めた」と言う。これは彼女の夫方のトゥバ系乳加工にはなかった乳製品である。彼女の新しい乳加工体系を図4に示す。

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 このシャルトス作りは2011年時点では、この集団のトゥバ女性たちの中で、次女だけが行っていた。シャルトスを調査地のトゥバ語ではドス11という。次女は、10代半ば頃から冬期は祖母と一緒に麓で草原家畜の世話にあたっていた。つまり、この家族の中で最も幼い頃から草原地域での生活を経験してきたことで、モンゴル系乳加工になじみがあったのかもしれない。さらに夫はモンゴル人である。これに対して、調査集団の長女の夫はトゥバ人だ。また、調査世帯の次男の嫁もトゥバ人だ。この両世帯は結婚時に持ち寄った婚資の多くはトナカイたちであり、長男世帯が所有するトナカイ群規模に遜色ないが、どちらの世帯も子どもが幼い。これは搾乳に従事する労働力規模に影響する。トナカイ所有規模はそう変わらなくても、搾乳労働力として戦力になる10歳以上の女児のいる長男世帯のようには乳を得られないのである。すなわちアールシの生産量も少なくなる。当然、ドスを作る余裕はない。比較的近い規模のトナカイ群れを所有しながら、年間を通じてほぼ行動を共にし、宿営地を形成する集団内の各世帯の状況をまとめると表2のようになる。この表からドスを作るか否かは、トナカイ所有規模には左右されず、夫婦のいずれかがモンゴル系であること、草原生活経験が長いことに関係していることは明らかだ。モンゴルの影響が薄いトゥバ女性にはドスはなじみのない乳製品だと言うことになる。

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 さらに、調査地でいうこのドスという単語が辞書になく、モンゴル語のシャルトスに該当すると思われるトゥバ語はウス[үс(us)]、もしくはサルジャク[саржаг(sarjag)]であることも見逃せない。このドスは、モンゴル語で脂を意味するトス[тос(tos)]からの借用語であると思われる。また、モンゴル語のホロードに対応するホロドではなく、アーロールに対応するアールシと呼んでいることもある程度納得がいく。調査地におけるトゥバ系トナカイ乳加工体系にはアールシもドスもそもそもなかった可能性を示しているのではないだろうか。つまり、トゥバ系トナカイ乳加工体系のモンゴル化は社会主義時代に始まりながらも、さほど定着してない、歴史の浅いものである可能性がある。

 とはいえ、トナカイ乳の希少性が観光産業の発展に後押しされる形で年々高まり、その加工品としてのアールシの商品価値は上がっている。4,5年前は町に持って行っても売れなかったのが、3年前頃から売れるようになった。この当時は500~700gのアールシが6000tgであった。これが今では10000tgに至った。それにともなう積極的なアールシ製造が可能になったのは、タイガ全体のモンゴル化という流れがあったからこそ、可能になっているのだといえよう。これからドスもまた、その希少性故に商品価値は高まると予想されるが、これへの対応がどのようにタイガ地域内で進むのかとても興味深い。

8.トゥバ文化の行方

 以上にタイガ地域を取り巻く社会状況の変化、および構成集団の変化、そしてそれらがもたらしたトナカイ乳利用の積極化について報告した。

社会主義時代に始まる圧倒的なモンゴル化、すなわち、モンゴル的遊牧形式、生活形式への同化の力が働くなかで、タイガ地域の自然環境の特殊性、およびトナカイの生態的特徴がある一定のブレーキの役割をしながら、それでもゆっくりとモンゴル化していく様子が見て取れる。タイガ側、すなわちトゥバ側が自分たちの独自性を頼りに成功を収めることによってモンゴル化を招き、同時に、それによって更に得られる経済的成功はトゥバの特異性を維持することに役立ちながらも、やはり、最終的にはモンゴル化は止められないというジレンマがあった。

自分たちの独自性を強調するために新しい集団を作ったが、それは自分たちをトゥバという言葉から切り離すことになり、モンゴル人の流入を招き、更に新しい呼称を生むに至った。これをもって、ある一定の経済的優位性を維持することが出来たが、それが更なるモンゴル人、モンゴル文化の流入を招くことになった。

モンゴル人との結婚は、多種家畜所有による経済的余裕をもたらすと同時に生活パターン、移動パターンの変化を余儀なきものとした。そして、その結果、トナカイ利用目的の変化を促し、乳利用方法を変えるに至ったのである。これら一連の変化はトナカイ乳自体の価値を見直す契機となり、モンゴル側からもたらされた乳加工方法は、さらなるトナカイ乳製品の付加価値を高めることになったのである。

トゥバ人たちが、自らをダルハドモンゴル人と呼ぶようになる時代がいずれ来ることはダルハド盆地の歴史を見れば明らかだ(Бадамхатан 1965)。しかし、そんな中で、トゥバ人、トゥバ文化がどのように圧倒的モンゴルに吸収されるのか、それともどのように形を変えて行くのか、とても興味深い。今回は、トナカイ飼育および乳製品に注目して、その変化していく様を追ったが、同様に考察するべき文化現象は非常に多い。生業に着目するのであれば狩猟採集漁労活動は、狩猟活動が禁止された現在、早急に調査分析する必要があるだろう。今後も、モンゴル化という文脈の中でトゥバの変化に注目していきたいと思う。

本稿は数年前に聞いた言説とそれから時間を経て現実に観察できた現象を元に考察を加えたが、多分に仮説に仮説を重ねた部分もある。しかし、今後の研究で批判されるべき、たたき台として残すべきが残せたなら幸いと思う。

脚注

  • モンゴルではツァータンヤスタン[ястан(yastan)と言われる。これは民族を意味するウンデステン[үндэстэн(undesten)]の下部集団を指し示す。トゥバ民族である彼らを表すには不適切である。
  • 2008年発行のリーフレットのタイトルは英語で、Tsaatan Comunity & Visitor Centerと書かれているが、モンゴル語ではЦаачин төв(Tsaachin tuv)と表記されている。
  • オトル[отор(otor)]とはよりよい草を求めて短期間で営地を変えながら移動を続ける放牧様式をいうモンゴル語。「追跡する」「ぶらぶらする」などの単語と関係があると思われる。
  • Эрх чөлөө紙 no35.フブスグル県中心都市ムルンにて発行されてきた新聞。
  • 嫁に来たモンゴル人女性の話によると、夫方の親戚に、「なんてたくさんのアールシをつくるの!」とびっくりされたという。製法に違いがあったのか否か、確認しなければならない点であろう。
  • хөгөөр (huguur) 表記からすればフグールと読むべき所だが、現地ではフガールという。この地域のモンゴル語は発話時に母音調和をしないことが多々ある。
  • ааржы (aarji)、辞書ではアールジとされているが、調査地ではアールシと発音しているように聞こえる。
  • トゥバァ語・日本語小辞典 中嶋善輝 東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所 2008
  • ホロドはкурут(korot)と書く。トゥバ語表記を読めばコロトというべき所だが、調査地ではホロドと発音されている。なお、前掲の辞書にはこれを乾燥凝乳と説明されており、非発酵乳から作る乳製品であるようだ。また、コロトはカザフ語のコルトと同じものを指しているように思えるが、カザフのコルトは酸乳で作るし、また塩も加えられる。他地域で草原家畜を飼育するトゥバ遊牧民の乳製品名称、および加工体系の吟味が必要であろう。
  • モンゴル語のホロードとは、хур + yyд (ホル オード)であろうと筆者は考えている。すなわち、ホルはたまったものを意味し、特に”脂肪で太った”などという表現に使われ、オードは複数を意味していることから、ホロードとは“たまった脂”などを意味していると考えられる。同様の解釈の可不可をアーロールにも試みているが適切な解釈が今のところ見つかっていない。
  • トゥバ語の表記不明。調査地で対象となるシャルトスをなんと呼ぶのかと尋ねたところ、dosとこたえдос(dos)と書いてくれたのだが、これは辞書に見当たらない。

引用文献

石毛直道

1997 「世界の中のモンゴルの乳食文化」、石井直道編『モンゴルの白いご馳走-大草原の贈り物「酸乳」の秘密』、チクマ秀版社、95-112頁.

小長谷有紀

1997 「加工体系からみたモンゴルの「白い食べ物」、石井直道編『モンゴルの白いご馳走-大草原の贈り物「酸乳」の秘密』、チクマ秀版社、29-168頁.

中嶋善輝

2008 『トゥバァ語・日本語小辞典』,東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所.

西村幹也

2008 「ツァータンのトナカイ飼育と管理方法」『帯広大谷短期大学紀要』45:21-32.

2012 「トナカイ飼育民ツァータンの生活変化”金”に翻弄されるタイガ社会」『北海道民族学』8:60-69.

Эрх чөлөө,1961,no35.

Бадамхатан.С

1965 Хөвсгөлийн дархад ястан,ШУАХ,Улаанбаатар.

近年の生活変化

「トナカイ飼育民ツァータンの生活変化―“金”に翻弄されるタイガ社会―」
Reindeer herder Tsaatan's life change -Influence of the gold rush in Mongolian's Taiga area-
2012 北海道民族学 第8号 【研究ノート】

はじめに
 モンゴル国北西部に「ツァータン(Tsaatan)」とモンゴル人に呼ばれる人々がいる。「ツァータンはトナカイを持つ者」という意味のモンゴル語でトバ(Tuva)と自称し、言語はトルコ系に分類される。彼らは森林地域でトナカイを飼育しながら生活しているが、社会主義時代以前より周辺モンゴル人との接触の中で言語や生活様式にモンゴルの影響を常に受け続けてきた。社会主義時代、さらには、社会主義崩壊直後に彼らがいかにして社会に適応し、生き残ってきたかについては、以前、拙論(注1)にて述べたとおりである。その当時はトナカイ飼育を主生業として、草原家畜飼育をすることで経済基盤を多重化し、資本主義社会への移行期を乗り切ろうとしている傾向について.述べ、ゆるやかにモンゴル化の道を歩むのではないかと予想したのだが、2010年の訪問時には、予想に反して、草原家畜や車、オートバイを所有するなど物質的に豊かになっていた。

 本研究ノートは、資本主義安定期に入ってからのツァータン社会の変化を総括することを目的としている。資料としてはモンゴル国フブスグル(Khövsgöl)県ツァガーンノール(Tsagaan-nuur)郡西タイガ地域各所にて著者自身が以下の期間に行った聞き取り調査を元にしている。

 1997年~1998年10/15~3/17:ジョログ(Jolog)川流域秋営地および冬営地、1998年7月:ミンゲボラグ(minge-bolag)夏営地、8月末~9月半ば:トルゴ(Torgo)川上流域秋営地、1999年9月半ば~10月半ば:ノホイントルゴイ(Nohoin-tolgoi)秋営地~ボルハヤグ(Bor-hayag)秋営地、2000年7月初め:ミンゲボラグ夏営地、2001年9月:フルンタイガ(Khürün-taiga)秋営地2002年9/5~9/27:ゴーラグ(Goolag)秋営地、2003年9/3~9/12:オラーンタイガ(Ulaan-taiga)秋営地、2004年2/10~2/27:ハルオスト(Khar osto)冬営地、3/20~3/23:ハルオスト冬営地、9/4~9/14:フルンタイガ秋営地、2005年4/28~5/9:イビディンエヘ(Ibidin-ekhe)春営地、2007年7/17~7/23:ミンゲボラグ、2009年9/7~9/12:ノゴーンゴル(Nogoon-gol)流域秋営地、12/28~12/31:ウフルティンアム(Ukhurtin am)上流域冬営地、2010年9/3~9/12:ゴーラグ秋営地、2011年5/1~5/5:シャンマグ(Shanmag)春営地、7/23~7/30:ゴーラグ夏営地
 なお、本文中の地名や現地における呼称などのカタカナ表記の後ろの( )内は、特に示していない場合はモンゴル語からの転写表記とする。

map02

1.資本主義経済安定期(2000年以降)のツァータン社会
 モンゴル現代史において、いつの時代をもって、資本主義経済安定期とするかは異論も多いかと思う。しかし、2000年頃から観光客が徐々に増え始めるに従い観光産業が芽生え、それ以前と比べて、より利益を得やすい経済活動が盛んになっていく中で、新しく若い世帯が生まれるなど、ツァータン社会の変化がはっきりと現れ始めた。
 ツァータンの新しい世帯は、社会主義時代末期に生まれ、そして社会主義崩壊後に成人した世代であった。ここでは、この新しい世帯を生み出すことを可能とした観光産業の成立過程から、ツァータンがモンゴル社会の中で経済的に優位な地位を得るに至るまでを概観することとする。

1-1支援活動の活発化と観光産業の芽生え
 変化の発端は、国内外のツァータンへの関心の高まりにあったと言えるだろう。これらは外国人観光客、宣教師の来訪と国外からの援助活動の開始や、モンゴル国政府による少数民族保護政策や各種国内NGOによる支援活動の増加をもたらすことから始まった。これらは1990年代後半から始まり、2000年代に入って、様々に結果や成果をみせはじめている。
 1990年代後半には既にモンゴルの民間NGOらによるツァータン支援は始まっていた。ツァータン協会(Tsaatan niigemleg1997年設立)、トナカイ基金(Tsaa boga san1999年設立)、タイガ自然協会(Taigin baigal niigemleg2001年設立)などがそれぞれに活動を開始している。いずれもツァータンの生活状況の向上、経済援助、教育支援、タイガの自然環境保護などを目的としている。
 具体的な活動としては、小中学校の整備、教員派遣、学用品支給、大学など高等教育機関への進学援助、住居用帆布配布、食料や衣料の支援、医療提供などがあげられる他、ツァータンの代表たちを首都ウランバートルに招き、国会議員らと会わせ、直接陳情する機会を作るなどの活動もあった。ツァータンの窮状を訴える様々な活動に後押しされて、モンゴル国人権委員会においては2001年にツァータンの生活状況に関する研究調査費用が予算化され、2003年に現地調査、2005年に調査報告書がモンゴル語、英語で発行されるに至っている(注2)。
 これらの支援活動は外国人観光客らの増加によって活発化してきた側面も持っている。モンゴル国内NGOはツァータンへの支援を開始するにあたり、その資金の多くを海外NGOやNPOなどに頼っていることが多い。ツァータンと関わること自体がビジネスチャンスを産むことに気がついたモンゴル人たちが増えた結果、国内でもその存在が話題になり、さらに多くのNGO、NPOらの活動開始を促したのである。
 NGO、NPOによる支援以外に、宣教師らによる物質的援助も2000年前後から活発に行われるようになっている。彼らは、聖書と日用品、食料などを届ける他、サマースクールや健康診断などのサービスを行うなど、熱心な宣教活動を展開してきた。彼らの活動は本国に報告され、さらに多くの人々の関心を集め、観光客の増加や海外からの支援活動を促すのに大いに役立ったと考えられる。
外国人観光客の数に関する具体的な統計データはとれておらず、現地での聞き取りと経験によるしかないのだが、2000年前後より特に欧米からの観光客と出会う回数は極端に増え始めている。
 しかし、外国人観光客が増え始めた当初は、それが直接ツァータン世帯に経済的利益をもたらしているわけではなかった。彼らは、純然たる伝統的習慣をもって外国人を受け入れており、彼ら側から観光客に滞在や食事に対する報酬を要求することは殆ど無かったのである。外国人観光客が来るようになった初期の頃は、麓に住むモンゴル人が輸送交通手段に馬を貸し出して利益を得ることの方が多かったのである。
 1990年代後半から2000年にかけての時期、ツァータンが観光客相手に行ったビジネスと言えば、彫刻を施したトナカイ角の販売くらいであった。彫刻作品は5~50ドルで売買され、かつてより漢方薬原料として1kgあたり2~5ドル程度で袋角を売買してきたより遙かに利益を得られた。また夏期の袋角切断がもたらすトナカイの健康状態悪化を防ぎ、体力維持が可能になるという点で大いに歓迎されるビジネスとなった。トナカイ角彫刻が売れると知るや、どの世帯でも作るようになり、外国人が来たと聞くや、彫刻を持って販売に出かけるようになった。2010年に至っては、一夏の角彫刻売買の利益は世帯あたり500ドルとも3,000ドルとも言われ、夏期の収入としては相当な額となっている。

1-2増えるツァータン世帯
 このように、ツァータンたちが国内外からの支援を受けるようになり、食料や日用品不足も解消され、トナカイ角彫刻売買による現金収入も得られるようになるなど、生活が安定し始めた2000年以降、ツァータン社会に起きた最初の変化はタイガ居住世帯の増加であった。
伝統的に族外婚制を取るモンゴル人と同様、トバ人の伝統習慣として同氏族間における婚姻はタブーとされており、人口の少ない彼らは周辺モンゴル人との婚姻の他に選択肢は無い。
 しかし、モンゴル側のツァータンに対する偏見や差別意識は社会主義崩壊直後から顕著に観察され、モンゴル人との結婚は難しいと言われていた。タイガの麓に住むモンゴル人も、「タイガなんかに嫁にやりたくない」という気持ちを当たり前に持っていたのである。従って、どこから嫁を迎えるか、どこへ嫁に行くかという問題は90年代半ばのツァータンにとって大きな問題になっていた。
ところが、2000年前後あたりから始まった婚姻では、モンゴル女性を嫁に迎え、かつ主生活地域をタイガに置く世帯が増えたのである。さらには、ツァータン女性と結婚したモンゴル男性がタイガに住む例も出てきたのである。
 社会主義崩壊直後の西タイガ地域で、モンゴル人配偶者を持つ世帯は一つも無かった。草原地域に居住地を移したツァータン男性がモンゴル女性を妻にしていた例が一件あるだけである。ところが、2000年から2011年の間に新しく11世帯が生まれ、ツァータン男性とモンゴル女性の結婚は6件、ツァータン同士の結婚が3件、モンゴル男性とツァータン女性の結婚が2件という状況にある。
 モンゴル女性の言に寄れば、その理由はツァータンの経済的将来性の高さにあるらしい(注3)。つまり、タイガの麓でモンゴル人と結婚するより、ツァータンに嫁に行き、タイガに住むほうが経済的に安定した生活を送れる可能性が高いというのである。1990年代には、貧乏人扱いされていた彼らの方が、麓に住むモンゴル人よりもビジネスチャンスに恵まれている上に、黙っていても支援、援助を受けられることで、経済的に優位に立つようになったのである。
 近年の支援の内容(注4)をみると、2000年から出産時に20万トゥグルク(tögrög)(注5)、2歳以下の子供に対して毎月12,000トゥグルクが支給されるようになった。さらに6億トゥグルクの予算が計上され、2008年には1世帯あたりヤギ10頭、2009年にはウマ2頭、太陽光パネル、蓄電バッテリー、ストーブ、小型モンゴルゲルとフェルト、2010年は80万トゥグルクの現金がそれぞれ支給されるなど手厚い支援が行われた。また、2009年から貧困撲滅基金からは所有草原家畜20頭以下の世帯に食料援助も行われた。所有家畜にトナカイは計上されないので、元々草原家畜の少ないツァータンのほぼ全世帯がこの食料援助を受けられる。以上のように、物資援助、経済支援などが頻繁に行われており、ツァータンであれば、これら全ての恩恵に浴することができるのである。
 ツァータン世帯の増加にともなって宿営集団の規模は大きくなった。基本的に新世帯は独立しても、トナカイ群を分配してくれた親集団と居住域を同じくする傾向があるからである。この結果、実労働者人口は増え、複数生業を同時に並行して営めるようになった。また、トナカイ角彫刻売買が一般的になったことで夏期の袋角切断が行われなくなり、トナカイの健康状態がよくなったこともあって、トナカイの数は2000年代半ばから増加し始めた。2011年に至っては、1,500頭を超えるトナカイが飼育されるようになっている。このことは彼らのタイガ内での機動力の増大を意味し、さらなるビジネスチャンスを産むことにつながっている。

1-3 観光産業への積極的参加
 このように様々に生活支援を受け、外国人観光客たちとの交流が進み、周辺に居住するモンゴル人たちに対して経済的優位に立ち、また資本主義経済原理を徐々に理解し始めたツァータンは、自分たちがツァータンであること、トナカイを飼っていること自体に大いに価値があることに気がついた。そして、観光客を積極的に効率よく受け入れていくことを希望し始めるに至った。
 1990年代後半から2000年初頭の頃はタイガを訪問する観光客の多くは、ツァガーンノール郡にいるモンゴル人馬主たちと交渉し、ツァータンの宿営地を目指すことが多かった。多くの場合、馬主は利益を得るが、ツァータンが収入を得ることは稀であった。
 そんな中、2007年ツァータンコミュニティー&ビジターセンター(TCVC.Tsaatan Community & Visitor’s Center)がアメリカの篤志家らの資金援助とモンゴルのNGOItgel基金、およびツァータンたちによって作られるに至った。このTCVCはツァガーンノール郡中心地に立ち、西タイガ、東タイガの全ツァータン世帯によって選ばれた職員が、NGO Itgel 基金の職員、海外からのボランティアスタッフらと常駐している。
 センターの名はモンゴル語ではツァーチン・センター(Tsaachin tuv)とつけられ、トナカイ飼育者センターを意味する。トナカイを持ち、タイガに生活していなければメンバーにはなれない。
 無線機がセンターに1機、東タイガ居住世帯の中に1機、西タイガ居住世帯の中に5機、それぞれ設置され、常に連絡を取り合い、旅行客規模や滞在希望にあわせて、機会均等に仕事を割り振るようになっている。ツァータンの収入は、馬やトナカイのレンタル代の80%で、残りはツァーチン・センター運営費および常駐職員の給与に充てられる。また、運営費の一部は銀行に積み立てられ、センターのメンバーであるツァータンに低利子で貸し出せるようになっている。

1-4 金鉱山の発見とトナカイ特需
 このようにツァータンたちは、トナカイを所有し、タイガに暮らしているだけで、観光客からの収入をある程度見込めるという恵まれた状況になったが、さらにツァータンに莫大な現金収入をもたらす事件が2009年に起きた。金鉱脈の発見である。
 この地域は社会主義時代以前より金鉱脈の存在が指摘されており、1990年代半ばには地質、鉱脈調査なども行われている。かつて露天掘りを行っていたという跡も、タイガ内に散見される。しかし、地面を掘ることを忌避する習慣を持つ彼らが金鉱脈を求めて探し回ることはなかった。
 しかし、モンゴル国内では1997年頃から、ニンジャ(注6)と言われる金鉱夫たちが現れ、モンゴル各地で金鉱脈を掘っては転々とするようになった。このニンジャの正確な数は把握できておらず、4~5万人とも、10万人とも言われている。
 そんな中で、2009年秋、西タイガ地域のトルゴ(Torgo)川がジョログ(Jolog)川に流れ込むあたりに大きな鉱脈が見つかった。この知らせを受けて、モンゴル全土からニンジャたちがタイガに押し寄せてきたのが2009年の冬である。わずか1ヶ月少しの瞬く間に知らせが広まり、2009年末には、厳冬期のタイガの中に500人を超えるニンジャが露天掘りをするに至っていた。また、2010年秋には1,000人とも5,000人とも言われるニンジャが集まっていると麓のモンゴル人たちは言っていた。
 ツァータンの中には、金採掘に自ら参加する者も多少はいたのだが、彼らの多くは自分たちの土地を荒らしたという汚名を嫌う者が多かった。しかし、これらニンジャが押し寄せてきたことで、トナカイ特需が引き起こされ、ツァータンは大いに潤うこととなった。
 すなわち、冬期の輸送交通手段としてトナカイの需要が高くなったのである。通常、冬期にトナカイを貸し出す機会は非常に少ない。マイナス50度にもいたるタイガに冬期に入る観光客はいないに等しく、麓のモンゴル人も殆どタイガには入らない。ごく少数のモンゴル人がツァータンに自己所有のトナカイを預けておき、冬期狩りにでかけることはあっても、これがツァータンの収入になることは無かった。また、トナカイは夏期には乗り物として利用できないため、トナカイの直接売買や毛皮や乳製品の売買(注8)、角彫刻売買以外に金銭を得られない家畜と考えられてきた。仮に観光客にトナカイを貸し出す場合でも1日1頭10,000トゥグルク程度である。
 しかし、ニンジャの来訪によって、金鉱脈発見直後の冬は、トナカイ・レンタル料金は一日一頭100,000トゥグルクと従来の10倍に跳ね上がった。麓から最短ルートを使って金採掘現場に行ったとしても、道中1泊は免れず、往復分をレンタルするため、3泊4日のレンタルが最短単位となり、そうすると1回で400,000トゥグルクになる。しかも、荷物を積んで人間が乗った場合、一人あたり最低でも2頭のトナカイをレンタルしなければならない。見つかった金鉱脈がかなりの規模の鉱脈らしいという評判が広がるにつれ、先行投資としてトナカイ・レンタル料金を払ったとしても十分に利益があがると考えるニンジャは、出来るだけ早く現地入りするために我先にとトナカイをレンタルするようになったという。もちろん、中には、トナカイのレンタルを最低限に抑える、もしくはまったくの徒歩でタイガ入りをするニンジャもいるが、一度に30頭ものトナカイをレンタルして、現地での長期滞在のための日用品や食料を積み込んで行く者もいたという。ニンジャ側にしてみれば、十分に元が取れるとのことだった(注7)。さらに長期滞在のニンジャに諸物資を売る商人たちもタイガに入るようになり、トナカイの需要は高まる一方であった。
 このトナカイ特需にツァータンは沸いた。2009年年末から2010年春にかけてニンジャは途絶えることなくタイガを訪れたのである。その結果、ツァータンたちは、わずか1週間や10日間、場合によっては、わずか2,3日で、1,000~3,000ドルを手にするようになったのである。西タイガ地域居住のツァータンのみならず、金採掘場から遠い東タイガのツァータンもトナカイを貸し出すために麓付近でニンジャを待ち構えるようにまでなった。また、ツァータンの中には、ニンジャ相手に商売をしようと酒を買い込んで現場に向かう者も現れたと聞く。
 このニンジャのゴールド・ラッシュによるトナカイ特需は冬の間続いた。結果、ツァータンは潤った。自家用車を購入する者、バイクを新調する者、草原家畜を大量に購入した者など得た現金の使い方はそれぞれであったが、彼らの生活は物質面において飛躍的に豊かになったのである。

2.経済発展の落とし穴
 このように国内外からの援助や支援、タイガ人口の増加による労働力の増大、外国人観光客の増加と組織的観光産業の展開、金鉱脈発見によるトナカイ特需といった追い風に乗って、2010年のツァータンの暮らしは、以前とは比べものにならないくらい豊かなものとなった。
 しかし、観光産業の発展やニンジャによるトナカイ特需は、彼らがツァータンであるための最重要要素であるトナカイ飼育の目的や方法を変化させはじめた。ここからは、新世帯の出現と人口増加、観光産業の発展、ニンジャによるトナカイ特需がもたらした生活変化を概観していくこととする。

2-1 季節ツァータン化とモンゴル化
 先にツァータン世帯が増えたことについては述べた。ところが新しく増えた世帯の殆どが、季節ツァータンとでも言うべき生活パターンを見せ始めている。すなわち観光客が訪れる夏期のみタイガの中で生活し、それ以外の時期は草原地域で暮らすのである。自分たちが世話をしない期間は親類にトナカイを預けるか、草原に移動する世帯同士でお互いに所有するトナカイを群にまとめてタイガに放置するようになっている。従来のツァータンの習慣では冬期の放牧はほぼ放置放牧を行い、群の所在や頭数の確認などを殆ど行わない。居住地付近に放置し、1週間に1,2回ほど群をまとめる作業を行うのが一般的である。放置放牧したとしても自分たちの住まいはタイガの中にある。しかし、この新しい放置放牧(注9)は、群をまとめるとしても1ヶ月に1度か2度程度、場合によっては春までの長期間にわたって放置し、自分は草原家畜と麓で暮らすようになっている。戸籍上はツァータンとして、居住地域はタイガであるとしながらも、その実、草原地域での生活の方が長くなっているのである。
 先にあげた新しく出来た11世帯のうち、モンゴル人妻を持つ6世帯すべてが季節ツァータンとなっている。これは婚資として受け取った草原家畜が相当数いたことも無関係ではない。草原家畜とトナカイをタイガで一年中飼育することは不可能なのだ。結婚以前よりヤギを所有していた若者は、モンゴル人妻を娶るや婚資で得た草原家畜と併せて200頭を超える群を所有することとなり、タイガでの生活が困難になり、生活地域を草原地域に移さねばならなくなっている。
 また彼らが草原地域に居を移す理由には児童の就学があげられる。筆者が調査したなかの2世帯では子供の就学以前は1年中タイガにいたのだが、就学を契機に主生活地域を草原地域に移すことになった。残り3世帯は結婚直後にはタイガに居たがモンゴル人妻の意向によって夏期以外は草原地域で暮らすようになっている。このような世帯の中には、夏期においても世帯主一人だけがタイガに出向き、家族は1年を通じて草原地域で生活するという場合もある。
 このようにしてみると、妻をモンゴルから得た世帯は結果的に生活地域を草原に移していることがわかる。そして、生活域を草原に移した結果、ツァータン男性方の文化、すなわちトバ文化、特にトバ語は壊滅的なダメージを受けており、このような家庭の子供はトバ語を全く理解できなくなりはじめている。
 こういったツァータン社会におけるモンゴル化の流れは、社会主義崩壊時の経済的困窮状態によってより加速していくだろうと、筆者も予想したし、ツァータン自身も感じていた。従って、経済的自立がトバ文化維持のために必要であると年長のトヴァ人たちの間で語られていたのだが、現在の経済的安定状態がモンゴル化を進めるとは誰も予想できなかった。
 しかし、新しい傾向であるこのような季節ツァータンらでも、トナカイを飼っている状態を維持して、ツァータンという名称を保ち続けたいと希望している。ツァータンであるというだけで得られる利益が多くあるからである。現在も彼らは狩りに出かけるが、以前と比べると、狩りの目的自体も、レジャー性が高くなっているように見受けられる。かつてはタイガ生活を維持するのに必須の食料や換金可能物資の調達は狩猟によって支えられ、この狩猟活動を可能とするためにトナカイを所有していたのだが、現在では狩りに行かずとも草原家畜から十分に食料を得られるようになっているのである。彼らがトナカイを所有する最大の理由はもはやツァータンという名を持つことで受けられる支援や援助を期待することと、ツァーチン・センターのメンバー資格を維持することにある。

2-2 変わる営地選択基準と人間関係
 観光産業がツァータンたちにもたらした利益は計り知れない。トナカイ角彫刻売買にはじまり、民宿(注10)経営、ツァーチン・センターからの仕事などは、自分たちがタイガに暮らし続ける以上、決して失われることのないビジネスのように考えているようだ。その結果、彼らは観光客を受け入れるために営地移動パターンを変え始めるなど、観光産業への過度の依存傾向にある。
 まず、彼らは観光客からのアクセスがしやすいところに営地を構えることでより多くの観光客を受け入れ、収益を上げようとしはじめた。観光客の多くは7月から9月にかけてツァータンの夏営地、秋営地を訪問する傾向が強い。西タイガ地域の最良の夏営地であるミンゲボラグが観光客にはもっともアクセスしやすい場所であるが、できるだけ長くここに滞在し、移動先の秋営地もここから近いところに構えるようになっているのである。秋前期営地10は、従来であればジョログ川やジャムス川流域の中流域に流れ込む支流の水源地周辺に構えるのが常であった。まだ気温変化が激しい時期にできるだけ涼しい場所を選択する必要があるからである。(注11)
 従って伝統的なやり方であれば8月半ば過ぎに移動が始まり、タイガの最も奥まったところに営地を構えるのが普通である。しかし、従来の秋前期営地は麓から足場の悪い湿地を2日から5日かけて行かねばならず、馬に不慣れな外国人観光客には厳しい行程である。ツァータンにしても、自分の馬を長時間使役することになるなど、負担が大きい。そのため、観光客受け入れのしやすい場所に秋前期営地を構えるようになったのだ。しかし、ツァガーンノール郡に近い側はオオカミが多かったり、ハエやカなどの害虫が多く、暑さや虫を嫌うトナカイにとって、よい営地とは言い難い。特に秋期は気候変化や気温の変化が激しいため、秋営地は数カ所を転々と変えるのが理想なのだが、それを行わなくなっている。現在、観光業への依存を高めた世帯が秋営地、冬営地としているシャンマグ(図1のD地域)地域は、以前利用していた地域(ジョログ川流域:図1のB地域)よりずっと狭い地域にあたる。さらに近年のトナカイの増加は、それ以前よりも広い牧地を必要とし、宿営集団間の距離は今まで以上に広がってしかるべきであるが、角彫刻売買に出向くのに利便性が高いと言うことで宿営集団間の距離は逆に短くなっている。

map01図1西タイガ地域における宿営地と移動ルート

 すなわち、トナカイ頭数が増えたにも関わらず、以前よりもお互いに近い場所に営地を構え、移動頻度も減らし、営地選択においてもトナカイの健康を第一に考えたものではなくなっているのである。このことは、社会主義崩壊当時より、比較的大規模群を所有してきた世帯や年配のツァータンの間から問題視されており、彼らは、観光客の利便性や観光客誘致のための営地決定や移動ではなく、あくまでもトナカイの健康維持を第一とした移動を現在も続けている(図1のC-D間移動)。営地選択基準の変化による移動回数の減少や宿営集団間の近接、営地の草原側への接近は過放牧やオオカミによる被害を増やし、純粋にトナカイ飼育を考える場合、決して得策とは言えない。
 ツァータン世帯の中で観光産業への依存度を特に高めている世帯は50頭前後の中規模トナカイ所有世帯である。また、彼らの草原家畜所有数が他と比べると少ないことも、彼らの観光産業への依存度や期待度の高さと無関係ではあるまい。
 しかし、観光産業からの収益は必ずしも一定ではなく、実際には非常に不安定な収入源である。ツァーチン・センターは開業した2008年には100人以上の観光客を迎え入れたが、翌年は30人程度、その翌年2010年には10人と極端に減っている。これは観光客の数が減ったのではなく、客を取られて慌てた麓のモンゴル人たちによる外国人獲得競争にツァーチン・センターが対応できなかったことによる。従ってツァータンを訪れる外国人の数は大きく変わっていない。しかし、ツァーチン・センターを通さない場合、ツァータン側は馬レンタル代を得られないため、2011年の夏には、ツァーチン・センターを通さずにやってきた観光客の受け入れ拒否や、滞在費を巡るトラブルも起き始めている。
 一方、モンゴル側はツァータンが受けているような支援や援助を受ける機会は少なく、また彼らを目指してくる観光客も殆ど居ない。従って、支援や援助に加えて観光産業でも利益を上げ始めたツァータンを快く思っていないモンゴル人も少なからずいる。これはモンゴル人だけでなく、トナカイを持たないが為にツァーチン・センターの活動に関われないトバ人も同様である。ツァータンが居住地を草原に近くしていることで、こういった摩擦は大きくなっているようだ。

2-3 トナカイ特需と失われた牧地
 金鉱脈の発見によって、それまでは考えられなかったトナカイ特需が2009年の冬からはじまった。採掘場と麓を行き来するニンジャの輸送交通手段としてトナカイを貸し出し、ツァータンは大きな富を得た。
 しかし、このトナカイ特需によって彼らはトナカイの放牧地を大きく失うことになってしまった。1990年の初頭以来、西タイガの宿営集団はジョログ川流域、もしくはジャムス川流域の上流域を春営地、冬営地、中流域および支流域を秋営地、ミンゲボラグという山頂盆地地域を夏営地として利用してきた。彼らは2~4年ほどジョログ川流域を利用した後、次はジャムス川流域をというように交互に利用することで、発育の遅いトナカイ苔の再生を促して利用してきた。社会主義以前のように宿営集団の規模が小さく、トナカイ所有頭数も20頭程度であったころは、今で言うオトル(otor)式(注13)移動を行っていたが、集団化や群の大規模化が進められる中で、このような移動パターン、土地利用が定着している。
 ところが発見された金採掘場は、ジョログ川中流域にあたり、秋営地のある所である。ここが大量のニンジャ流入によって破壊されてしまった。ゴミや屎尿による汚染、物置小屋の物資の盗難、家畜泥棒の被害が続出したのである。2009年末にジョログ川上流域の採掘場へのちょうど中間地点で冬営地を構えていた家族は、途絶えることのないニンジャの来訪で営地周辺は汚され、家財道具も家畜も盗まれるなどしたために、1月早々に冬営地をニンジャたちの移動ルート上から離れた所へと移動させている。
 また、トナカイをレンタルせず徒歩で採掘場へ向かうニンジャたちの後をオオカミがついて行くことが多く、ジョログ川流域にオオカミが入り込んでしまったことも、大きな問題となった。
 こうして西タイガ居住世帯は、従来利用してきたジョログ川流域の牧地を失うこととなった。2010年現在、彼らはナリーンウブル(Nariin-ubur)-シャンマグ-ソールナグ(Soornag)-ゴーラグと結ぶルートを利用し始めた(図1のC-Dルート)(注14)。ここは、ジョログ川やジャムス川のような大きな河川が流れておらず、いくつもの小川や谷間、湖を繋いだルートである。ゴーラグを夏営地、秋営地とし、シャンマグを冬営地、春営地とするのだが、入り組んだ地形は規模の大きくなった群を管理するのには困難を伴う。このようにニンジャの流入はトナカイ飼育に適した限られた土地を奪うことになったのである。
 しかし、トナカイ特需による高収入は2010年春をピークとした一時的なものであった。雪が溶け始める5月半ばからは馬が使われるようになったことと、環境保護のためのニンジャの取り締まりが始まったからである(注15)。従って、トナカイ特需は2010年初頭から4月頃までであった。連日の輸送でトナカイの疲弊がひどく、肥育期間のはずの冬に体力を消耗してしまっている現状を経験したツァータンは、これ以降、ニンジャとの関わりを殆ど持たないようになっている。結果、トナカイの過度の使役による疲弊は避けられることとなったが、彼らがニンジャたちによって貴重な放牧地を失ったことには変わりなく、未だにジョログ川流域の利用は出来ないままである。

3.まとめ
 以上、著者自身が現地には行って調査を行った2000年前後から2010年頃にかけてのツァータン社会に起きた変化とその結果、もしくは影響について述べてきた。
 彼らがトナカイを所有するツァータンであるが故に、多くのビジネスチャンスに恵まれたが、この経済的な成功が、トナカイを所有し続けること自体を困難なものとする可能性を内包していることは大きなジレンマとなっている。彼らのアイデンティティは、タイガに住むこととトナカイを所有することの二点に集約され、これを保持し続けることで、モンゴル化の速度は遅くなるだろうと著者にもまた他の研究者にも思われた。タイガと草原の自然環境の違いは、それほどまでに大きな境界線を作っているのである。タイガでの生活維持が出来れば、彼らはツァータンで有り続けられると、彼らの多くも考えている。
 しかし、基本的にこの土地がモンゴル国の領土である以上、少数民族である彼らがモンゴル化していくのは止められない流れにある。モンゴル人を配偶者とした世帯は今後加速度を増しながらモンゴル化していくだろう。このままでは、その子供たちは間違いなくトバ語を解さなくなるだろう。トナカイ飼育の方法においても、伝統的トナカイ飼育方法は、その飼育目的が変化したことによって変化していく。中大規模群飼育になったことで柵利用が増え、また、人間との接触頻度の低い放置放牧の機会が増えていくことが予想される。基本的には個体管理だったトナカイ飼育が群管理、すなわちモンゴル式家畜管理方法に変わっていくだろう。ツァータン文化とも言うべきトバ文化を代表する独特の言語や生活様式は、物質的支援や経済発展だけでは保存できないようだ。
 ツァータンが、ツァーチンとしてトナカイおよび自らを観光資源としてビジネスをしていくのか、それとも可能な限りモンゴル化に抵抗しながらタイガに住み続けるのか、今後も観察を続けていこうと思う。


1 西村2003 pp54-55.
2 үндэстний цөөнчийн эрх судлалгааны тайлаи,Улаанбаатар 2005.
3 西タイガ地域最多トナカイ所有世帯の長男と結婚した女性、およびこの女性の姉であり同じくツァータンと結婚した女性の言による。
4 いずれもツァータンに嫁入りした女性たちからの聞き取りによる。
5 1円=約15トゥグルク(2011年夏現在)。
6 大きなタライを背負った姿が映画「忍者タートルズ」のキャラクターに似ていることから、ニンジャと呼ばれている。
7 トナカイの乳製品売買は2010年頃から行われるようになった。以前は自己消費する量しか得られなかったが、トナカイが増えたことで新たなビジネスチャンスを生み出している。
8 2011年夏に偶然出会ったニンジャ経験者の話によれば、この金鉱脈に出向いて1週間で300~1000ドル相当の金を手に入れられたとのことであった。
9 冬期のトナカイ放牧の概要については西村 2005 pp28-29に詳細がある。
10 2005年頃から外国人旅行客はテントを自前で持ち込むことが多いのだが、景観保護のためにテントをはらせず、用意した宿泊用オルツに泊めて宿泊代を得る世帯が現れている。
11 秋期のトナカイ牧畜の概要については、西村 2005 pp26-28に詳細がある。
12 牧草や水の状況を見ながら、最低限の家財道具を持ち、牧夫のみが家畜を追いながら、小規模の移動を繰り返していく遊牧方法。夏期のゴビ地域や冬期~春期の草原地域などでよく見られる。
13 観光産業への依存度を高めた移動パターンをとる世帯は図1のA-D間移動を行っている。
14 取り締まりは始まったが、ニンジャが来なくなったわけではない。2011年夏時点で300~500人はいると言われている。

参考文献
Jessica Schutz,Morgan Keay
     2008 Tsaatan Community and Visitor’s Center,Tsaatan Community &Visitor's Center
Монгол улсын хүний эрхийн үндэёний комисс
     2005¯үндэсний цөөнхийн эрх судлгааны тайлан,Улаанбаатар.
С.Бадамхатан
     1965 Хөвсгөлийн дархад ястан,ШУАХ.
     1962 Хөвсгөлийн цаатан ардын аж ахуйн тойм,ШУАХ.
西村幹也
     2003 「ポスト社会主義時代におけるトナカイ飼養民ツァータンの社会適応―モンゴル北部タイガ地域の事例―」『JCAS Occasional Paper no.20 スラブ・ユーラシア世界における国家とエスニシティⅡ』:pp.45-58.
     2005「ツァータンのトナカイ飼育と管理方法―ポスト社会主義時代への対応のために―」『帯広大谷短期大学紀要』第45号:pp.21-32.

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トナカイ牧畜について

「ツァータンのトナカイ管理と飼育方法 -ポスト社会主義時代への適応のために-」
2008年 帯広大谷短期大学紀要45号掲載

  はじめに

 本論文はモンゴル北西部針葉樹林帯地域に居住するトナカイ飼育民ツァータンのトナカイ管理の方法について年間を通して概観し、その特徴を考察するものである。

 ユーラシア大陸北部に広く分布しているトナカイ飼育ではあるが、タイガ地域におけるトナカイ飼育に関する研究はツンドラ地域のそれらと比べて非常に少ない。ウマやウシなどの草原家畜を飼育するモンゴル民族の牧畜活動の影響を、生活地域を接するトバ民族のトナカイ飼育が強く受けている点が指摘されるなど、非常に興味深く、かつ、家畜飼育の起源などを考察する上で重要な研究対象であるにもかかわらず、フィールドワークに基づく研究論文、報告が非常に少ないのが現状である。

 ツァータンの人類学的調査は1962年のバダムハタン論文に始まるが、その後、社会主義崩壊後に至るまでに特に発表されたものは無い。モンゴル人民共和国が1990年に社会主義体制を放棄して以降、外国人研究者がフィールドワークをようやく始めるに至っているが、2008年現在に於いても断片的にトナカイ飼育について述べられた稲村論文(2000年)、秋季、冬季における日常的なトナカイ飼育の実態を述べた中田論文(2003-2006年)があるのみで、ツァータンのトナカイ飼育に関して、長期的な観察に基づいて発表された論文はなく、筆者が2004年に記した小文があるにすぎない。

 トナカイ飼育がツァータンの基幹生業であることに異論はないのだが、現実の彼らの生活は草原地域の遊牧民らが牧畜活動に依存するほどには、トナカイ飼育に依存していないことも報告されている。特に社会主義崩壊以降は狩猟採集活動や観光産業の展開など、様々な生き残り戦略が展開されてきた。ツァータンを取り巻く社会情勢の変化とそれらへの社会適応については社会主義時代以前の彼らの活動から一つ一つひもといていかねばならないだろう。

 その理由に、ツァータンの社会主義化に伴う大規模トナカイ飼育への移行とその結果が、現在のツァータンのトナカイ飼育方法に大きな影響を与えていると考えられるからである。

 残念ながら本稿で、社会主義時代におけるツァータン社会の変化、およびトナカイ飼育民ツァータンの成立過程について述べるには紙面が足りない。従って、筆者が1995年より始めたフィールドワークのデータを元に、まずは現在における営地選択とトナカイ飼育の実態を年間を通して概観し、その特徴について考察を試みることを本稿の目的とする。大規模トナカイ群飼育の方法が、世帯内における分業を可能とし、ポスト社会主義時代を生き抜くための生業の多重化をもたらす基礎を提供したことを述べたいと思う。

調査地、調査対象、および方法

 1995年より2007年7月にかけて、モンゴル国フブスグル県北西部、オラーンオール郡およびツァガーンノール郡内の山岳地域で断続的にフィールド調査を行った。調査回数は19回、各回5日から一ヶ月半程度の期間滞在した。

 フィールド調査は一貫して現地で西タイガと呼ばれる地域に居住するバヤラー宿営集団内にて行った。当宿営集団は、調査開始時においては最多トナカイ頭数所有世帯として有名であり、かつ優良牧民として周辺の他宿営集団から認知される世帯である。家族は調査当初は世帯主バヤラー、妻、長男、長女、次女、次男、三男、四男、五男、バヤラーの母で構成されていたが、長男、長女の結婚、三男、バヤラーの母の死去などを経て現在に至る。

 宿営集団は基本的には家族単位で構成されるが、季節によって、親戚、縁戚などを中心に2~4世帯程度が離合集散する。このように構成員は変化するが生活やトナカイの管理は基本的には世帯単位で営まれている。
 彼らは「トバ」「オイガル」を自称とするトバ民族であるが、「トナカイをもつ者」を意味するモンゴル語「ツァータン」と呼ばれる。モンゴル人民共和国とトバ人民共和国の国境が定められた1932年時点でモンゴル側に居たトバ人たちがそのまま残り、森林地域でトナカイを飼いながら狩猟採集を生業としていたのを、トナカイ牧民として集団化して後、「ツァータン」と呼ばれる集団が作り出された。この呼称は他称であったが、現在では自称する者も出てきている。

 トバ人はトバ語を母語とするが、長いモンゴル人支配の中で、トバ語を解せない者が増えている。また、トナカイの減少に伴い、タイガ地域での生活が不可能となり、麓に降りてきて賃金労働に従事する者も増え始めたため、トナカイを持たないツァータンが生まれることとなった。これら麓に降りていったツァータンとタイガでトナカイとともに暮らすツァータンを区別して、特にタイガに住む人々を「タイガの人」と呼ぶようになってきている。2007年夏現在、「タイガの人」としてトナカイとともに暮らすツァータン世帯は約30世帯、トナカイの数は600頭前後と言われる。

 麓のモンゴル人には、「比較的自由に」「常に、頻繁に移動している」とみなされ、外国人旅行客に対しては「いつも移動しているため、所在不明で見つからないかもしれない」という説明がなされるなど、ツァータンの移動や生活様式、トナカイ飼育の有り様の実際をよく知らずに、「原始的な生活」、「かつての遊牧形式」と語られることが多い。

 しかし、実際はいくつかの決まったパターンを持っており、ほぼ一定の場所を季節移動している。季節毎にトナカイ管理の方法は異なり、そのためにそれぞれに適した場所が営地として選ばれ、その営地は、宿営集団毎にほぼ決まった場所となっている。

 これより、以下にバヤラー集団の営地と、放牧活動について季節毎に述べていこう。

トナカイ飼育の年間活動

1 春営地における牧畜活動

 春営地には4月半ば頃に移動してくる。4月下旬から5月半ばにかけて出産シーズンとなり、それに備えて移動する。バヤラーの春営地はボルハイグかデード・オストにある。ここは、標高2000m近くに位置し、森林限界の直下にあたる。

 この時期、放牧は1日3回行われる。太陽がトナカイ柵にあたりはじめる8時頃にその年に生まれた仔トナカイ以外はみな放牧に出される。11時半頃に群は人に追われて戻され、柵に追い込まれる。トナカイの数を確認した後、授乳すべき仔のいる母トナカイが柵から出され、地面の杭につながれる。つながれていた仔トナカイは自由にされ、母から乳をもらう。授乳後は、母も紐を解かれ自由に動き回るが、仔がいるために、どこかへ行ってしまうことはない。そして、午後3時頃、トナカイを放牧に再び出す。このとき、仔トナカイは杭に繋がれ、母トナカイは群と共に、放牧に出される。午後6時頃にこの群は再び、宿営地に戻され、柵に追い込まれ、先と同様に母トナカイが柵から授乳のために出される。次いで午後7時頃に、夕方の放牧に出す。このときも先と同様に仔トナカイを残して、他は群で放牧に出される。太陽が西の山を越えた頃、この時期ではほぼ9時半頃に群は柵に戻される。再び仔のいる母トナカイが柵から出され、仔に授乳した後、搾乳され、仔と一緒に柵外につながれて夜を過ごす。このように搾乳は放牧から戻ったときに行われる。なお、出産間近と見立てられた雌トナカイも柵に戻されたらすぐに柵から出され、杭につながれる。

 この時期の放牧中には、生まれてすぐの仔畜が群から遅れたり、はぐれることがないように、人が終始付き従う。1日に数回放牧を行う理由は、群が散らばりやすいこの時期に、こまめに群を宿営地に戻すことで、群全体を把握しやすくしているのである。また、3時から6時は気温がもっとも上昇する時間帯にあたり、この時間帯に狭い柵内に留めずに放牧に出すのは、涼しいことを好むトナカイを配慮していると考えられる。

 このように、この時期、仔トナカイ以外は、全てのトナカイがひとつの群として放牧に出される。

 放牧に出されるトナカイはオス同士、メス同士で同じ大きさくらいのトナカイが二頭ずつ首をつながれる。この時期、雪が溶け、地表が現れ、花芽が出はじめ、花が好物なトナカイはそれを求めて散らばってしまいがちになるため、このような処置を行って個体に行動制限をかけ、トナカイに騎乗した人が後ろから鞭をふるいながら、群を追う。

2 夏営地における牧畜活動

 バヤラー集団は6月末に夏営地に移動してくる。夏営地はミンゲボラクにある。ここは2000m以上の山々に囲まれた広い盆地状の氷食谷で、湿原になっている。非常に涼しく、暑さを嫌うトナカイには都合の良い場所である。トナカイが散らばりすぎることもなく、山風が強いために、害虫も駆除できるという利点がある。

 トナカイにとって、ブヨやアブは非常に危険な存在である。皮膚に卵を産み付け、それがトナカイを死に至らしめることすらある。社会主義時代には、行政によって予防接種が行われていたが、今では外国からの援助に頼るしかなくなっている。予防接種がほとんど行われなくなった現在、害虫駆除の方法として昔ながらの方法に頼るしかなくなっている。

 トナカイ飼養分類において、害虫駆除の方法には大きく分けて2種類ある。一つは、海風や山風を利用するものであり、もう一つは、燻し小屋を利用するものである。前者は大規模飼養を行うラップ、サモエード、チュクチ=コリヤーク型が該当し、後者にはサヤン型、ツングース型が該当している(佐々木 1984)。しかし、ツングース型に関しては山風利用が併用されるともあり、佐々木は以下のように述べている。

 「山風を利用するのは主に夏に河川や海岸部で漁労活動、狩猟活動に従事する人々に多く、彼らはその間にトナカイを高地に連れて行ってほぼ自由に放牧させる。(中略)この方法はウイルタ族(オロッコ族)、セリクーブ族、ケット族と一部のエヴェンキ族、エヴェンなどのトナカイをごくわずかしか持たない人々の間でよく行われている。また、群は大きいが、山岳地方のラップ族のトナカイ飼養民でも行われている。」(佐々木 1984)
 この記述は、まさにツァータンの夏営地における放牧と合致している。「狩猟活動に従事する人々」が「トナカイを高地に連れて行ってほぼ自由に放牧させる」のは、まさに夏営地におけるツァータンの放牧方法であり、害虫駆除方法である。

 夏営地ではトナカイは3つの群に分けられて管理されている。母トナカイ、仔トナカイ、他トナカイ群である。仔トナカイと母トナカイは交互に宿営地につながれ、他のトナカイ群は基本的に放置されるが、狼の被害が付近に出たときなどは毎日すべてのトナカイを係留する。

 1998年夏の調査時の放牧サイクルと2007年夏の調査時のそれとはずいぶんと異なっていたが、近年、夏場の観光客増加に伴い、観光客の後についてくる狼もまた増えたためだという。1998年夏の放牧は以下のようであった。

 仔トナカイは夜間放牧され、朝方6時頃に帰ってくる。母トナカイはつながれて夜を過ごす。帰ってきた仔トナカイを杭につなぎ、代わりにその母トナカイを放牧に放ってやる。このときは搾乳しない。放たれた母トナカイは個別に自由に草を食べて、12時前には個々に帰ってくる。帰ってきた母トナカイを捕らえて、仔トナカイに授乳させ、次いで搾乳し、母トナカイをつなぎ、その仔を放つ。夕方4時頃に仔トナカイが戻ってくるので、これをつなぎ、母トナカイを搾乳して後、放つ。そして8時頃に戻ってきた母トナカイに仔に授乳させ、搾乳し、杭につなぎ、その仔を放つ。放たれた仔トナカイは朝まで自由に草を食べ、翌朝個々に戻ってくる。この時期の搾乳量は、2000年夏のバヤラー集団では34頭のメスから1日で約15リットルにも及んだ。

 これに対し、2007年夏の放牧は以下のようであった。

 朝6時半頃搾乳を開始し、搾乳後、すべての個体を放牧に放つ。このとき仔畜以外は2頭ずつつないで行動制限を施して放つ。この時は宿営地周辺には太陽光はまださしていない。朝の放牧時群は西側斜面に向けて放たれる。人がついていくことはほとんど無い。太陽光が西側斜面に当たるようになり、徐々に気温が上がり始めると、それに追われるような形で群は、より涼しいところを求めて移動していく。普通ならば、トナカイたちは自分たちで宿営地に戻ってくる。宿営地は北側に川があり、「比較的涼しい場所」であるからだと言われる。10時過ぎ頃に戻ってきて、しばらくそこにいるが、風が吹き始めるなど、涼しくなってくると活動を開始し、また宿営地を離れていく。ツァータンの話に寄れば、暑いと涼しいところを求めて動き回り、群がまとまらないが、涼しすぎても動きを止めることなく、動き続け、群がどこかへと行ってしまうことも多いという。従って、19時頃になって群が戻ってこないときには、人が行って集めなければならなくなる。集められた群は、母トナカイ、仔トナカイ、その他で大きく分けてつながれる。戻ってきたときも搾乳する。なお、仔トナカイや母トナカイは2頭つなぎされていないためか、他個体よりも動きが自由であり、宿営地付近によく戻ってくる傾向にある。
 夏営地におけるトナカイ管理は、母仔群を分離して行う他、気温変化を利用して群を誘導する。可能であれば、牧夫は群につくこともなく、また集めに行くこともない。さらに、塩でおびき寄せるようにしておくなど、極力、トナカイの管理に労働力を費やさないような方法をとっている。

 母トナカイと仔トナカイのいずれかを宿営地につなぎ止めることで、もう片方が宿営地に自然と戻るように管理する方法は搾乳を行う時期には特に行われる。ただし、それぞれの母仔個体は群として動くよりも、個体で活動することが多いため、母仔畜のペアを単位として、母トナカイ群、仔トナカイ群というように群単位ではなく、個体単位で管理している。2007年の放牧パターンは、狼対策ということであるが、基本的には放置放牧を夏には行うため柵も作らない。しかし、被去勢使役用トナカイおよび種トナカイ群に対しては、所在を確認するために、1日1度は群の様子を見に行き、時には一旦、群を連れ帰ってくる。このとき、塩を与えることが多い。更に、4,5日に一度の頻度で鍋一杯のお湯に塩を溶かし、それをまいてトナカイ群を呼び寄せる。

 1年を通じて、トナカイの群を営地付近に留めておく方法に塩を恒常的に与える訓化技術がある。高倉はこれを「塩付け」と呼び、メスを捕獲するのに利用される方法であるとしている(高倉 2000)。ツァータンのトナカイ飼養においても同様に塩を使ってトナカイを人間に近付けている。すなわち、群が営地付近に来たとき、もしくは柵の中から特定のトナカイを捕らえるとき、塩を掌に乗せて呼び寄せ、直接、手づかみでトナカイを捕獲する。塩の入った布袋をちらつかせながら、トナカイに近づくときもある。塩を持っていなくても、掌に指をたてて、「ちっちっち」と呼ぶと、塩を持っているとトナカイは勘違いして近づいてくるようになる。

 ただし、ツァータンのトナカイ飼養においては、雌トナカイに限って使われる方法ではない。全ての個体に対して有効な方法となっている。そのために、普段から、人間が塩をくれるものであることをトナカイに教え込む必要がある。

 従って、オルツから数メートルのところに塩水を蒔く場所を作ったり、杭を立てて、塩水に浸した布きれをぶら下げて置いたりするのである。これら塩場は放置放牧を行う夏季と冬季に多い。さらに、普段から尿をトナカイの鼻先にするようにする。このときトナカイたちは人間に臆することなく群がってきて尿を舐めたがる。雪のない地面に小便をした場合は、染み込んだ土を掘り返しながら舐め続ける。オルツ周辺でうろついているトナカイは、オルツから人が出てくると尿をもらえると思って、一斉に集まってくる。また、人の衣類には汗などの塩分がついているため、所構わず舐めはじめる。

 さらに、中には放牧から戻ると、オルツに首を突っ込んできて塩をねだるトナカイもいる。こういったトナカイには必ず塩をやって習慣づけてやるようにする。オルツの中に塩があることをトナカイは知っているため、オルツを覆っている布を引きはがして、塩をなめようとまでするようになる。放置放牧を行う時期に特に塩を使ってトナカイを宿営地につなぎ止めるようにし向けている。

 夏のトナカイ飼育において重要な仕事として、搾乳の他に、かつてであれば袋角切断があげられていた。暑さに弱いトナカイの夏季の角は毛皮で包まれた袋角となり、皮の下に血液を流し、風に当てて体温を下げている。この袋角が漢方薬の原料として高く売買されるようになったのは1980年代に入ってからのことだという。しかし、無計画な袋角切断が行われたため、トナカイが体力を落とし、また体格が小さくなるという傾向が出始めた。社会主義崩壊直後は、特に現金収入を得るために切断が当然とされていたが、買い取り価格が徐々に安くなってきたこと、トナカイの健康状態が悪化してきていることなどを理由に、切断しない世帯が出始めた。さらに、2004年頃から欧米の観光客が多く訪れて来るようになると、角に彫刻を施して売った方が有利となり始めた。1kgの袋角が5000~9000トゥグルク(約500~900円)で売買されていたのに対して、高さ10センチそこそこの角に彫刻を施したものが15$~40$にもなるのである。しかも彫刻は袋角にではなく、骨化した後の枯れ角に施す。すなわち、10月頃に自然落下した角を拾い集めておいて、彫刻しておけば翌夏には相当の収入を得られるのである。2007年夏には袋角切断を行う世帯は皆無となり、その代わり、ツァータンたちのほとんどが彫刻家となっていた。袋角を切らなくなって以降、トナカイの病気が格段に減り、トナカイの夏場の太り具合も良くなったと、どの世帯にインタビューしても話に出ていた。

3 秋営地における牧畜活動

 秋営地は一カ所ではない。バヤラー集団は8月後半から夏営地を離れ、ジョロク川沿いを下りながら、秋営地をいくつか構える。彼らの1997年から1999年の間のそれぞれの秋営地をまとめると表3-6のようになる。ほぼ同じ時期に、場所を変えているのが判る。すなわち、8月末から9月半ば、9月半ばから10月始め、10月始めから11月始めと3カ所を移動している。それぞれを秋前期営地、秋中期営地、秋後期営地と名付けそれぞれの営地の特徴とそれぞれの営地での牧畜活動を以下に述べていくこととする。

 3-a.秋前期営地

 夏営地を移動したバヤラー集団は、フギィン・サイルもしくはジョットナイ・アム、シャンマグに移動する。この土地はいずれも広く開けた地形である。フギィン・サイルやジョットナイ・アムでは日当たりの良い河原にオルツを構え、背後には急勾配の斜面を背負う。シャンマグでは湿地帯を前にして背に急勾配斜面を背負う。オルツ正面には山の北側斜面があり、いつも日陰で涼しくトナカイを放牧するのに適している。

 この秋前期営地に移動してくると、すぐに、去勢を行う。種トナカイが発情期にはいり、メスを追い回し、群を散らしてしまう前に去勢する。トナカイ飼養の分類において去勢方法は放血法と無血法がある。放血法は陰嚢を切開して睾丸を摘出する方法であり、無血法は歯で睾丸をかみつぶす方法である(佐々木1984)。サヤン型、サモエード型で放血法が採用され、他の型では無血法が採用されている。ツァータンの去勢方法は放血法である。モンゴルのウマにおける去勢と手順はほぼ同じであるが、睾丸を引き抜かずに、切り込みを入れるだけで、睾丸が自然に落ちるのにまかせる。

 この時期の放牧サイクルは夏と同様である。早朝6時頃、仔トナカイが戻ってくるので、これを捕らえ、母トナカイを放つ。10時頃に母トナカイが戻ると、それを搾乳し、つなぎ、代わりに仔トナカイを放つ。13時頃に仔トナカイは戻り、繋がれ、母トナカイが放たれる。18時頃、戻ってきた母トナカイを捕らえ、搾乳し、つなぎ、仔トナカイを夜間放牧に出す。すなわち、秋前期営地においても、母トナカイ、仔トナカイは分離されている。他のトナカイ群は、夏営地ではほぼまったくに放置されていたのに対して、秋前期営地では、夜は柵に入れられる。つまり、朝、柵から放牧に出され、夜には柵に戻されている。また、春営地で行っていたように、トナカイの行動制限をするために、オス同士、メス同士で2頭ずつ首をつながれて放牧に出される。

 朝、放牧に出されるとき群は大抵の場合、川下に放たれる。2人くらい人がついていき、ある程度まで追い立てたら、人は戻ってくる。そして、昼過ぎくらいに再び群を集めに行く。このとき、群の向きを川上へと向けて追い立てる。営地のある場所を過ぎて川上へと追い、先と同様にある程度追い立てたら人は戻ってくる。そして夕方になると、群を追い立てに人が向かい、群を営地の柵へと追い込む。このタイプの地形の秋営地では柵は必需である。

 このように、母仔トナカイの放牧は夏営地で行われていたパターンとほぼ同様に、交互に放牧に出し、他の群はまとめて放牧に出している。午前中の比較的涼しい時間帯に川下へ追い立て、気温が上がる頃には、比較的涼しい川上へと移動させることで群が散らばらないように配慮している。秋は気温変化が激しく、少しでも涼しいところを求めるトナカイは群としてまとまりにくい。また、好物のキノコが生える頃には、この傾向はいっそう強まる。トナカイが発情期に入る前に去勢を行うためには、夏営地からの移動距離は短くなければならず、またトナカイを視認しやすい場所がこの時期の放牧には肝要であり、そのために、河原の開けた、そして、日中気温差を利用しやすい場所が営地に選ばれている。
 
 3-b.秋中期営地

 9月半ばくらいには去勢も終わり、彼らは営地を移動する。バヤラー集団の秋中期営地はノゴーンゴル、トルゴ、ノホイントルゴイ、ボルハヤグなどにある。いずれもジョロク川に流れ込む小川の上流域にあり、標高は約1800m前後になる。営地を構えた所から、更に上流域は森林限界を超え、切り立った岩山に囲まれている。岩山に囲まれた谷間はトナカイ苔も多く、また、非常に涼しいため、暑さを嫌うトナカイが散らばりにくい。また、岩山は中腹から山頂にかけてはトナカイ苔もなく、トナカイが食べ物を探しながら、岩山を超えてしまうことも無く、自然の柵となり、トナカイの管理が非常に容易である。営地から少し下ったところにトナカイ返しの柵を作ることで、小川を下りきってしまうことを避けている。こうすることで群が散らばることを避けることが可能となり、営地に柵を作らないほうが多い。

 この営地での搾乳サイクルは秋前期営地におけるサイクルと変わりない。従って母仔トナカイはそれぞれ交互に放牧に出される。このころには、搾乳量は徐々に減り始め、秋中期営地に来た頃には、せいぜい5リットルくらいになっている。

 他の群は種トナカイを除いて、他は放置される。このときも行動制限をするために2頭ずつ繋がれての放牧となる。この時期の最も大きな関心事は、種トナカイの扱いである。種トナカイを他の群と混ぜてしまうと、他のオスとケンカをしたり、メスを追い回したり、非常に管理しにくい。まして、2頭以上も種トナカイがいると、お互いにメスを奪い合い、群はちりぢりになってしまう。そのため、種トナカイは別々に群に放たれる。2,3歳の種トナカイであれば、老種トナカイとケンカにもさほどならないため、一緒に出しても良いが、年の近い種トナカイを一緒に放牧に出してはならない。放牧に出された方の種トナカイは、右前脚を首に繋がれ、行動制限される。営地に残された種トナカイは、5mから7m位のロープで木につながれる。つなぐ場所は2,3日で変えられる。そして、メスの様子を観察し、排卵時期を見極めて、時期が来たと判断された場合に、放牧から戻ったメスをつながれた種トナカイのそばに連れて行って交尾させる。体の大きな種トナカイは、この期間中殆どをこのようにして過ごす。

3-c.秋後期営地

 10月始めくらいに、秋後期営地へとバヤラー集団は移動する。秋中期営地は、支流の上流域にあるために、飲用水が凍り付くのが早いため、長期間滞在しにくい。凍る前に移動しなければならない。

 秋後期営地は、ジョットナイ・アム、ボルハイグなどである。ジョットナイ・アムは秋前期営地でも利用していた場所であるが、秋前期営地跡にそのまま移動することはない。ボルハイグは秋中期営地でも利用されるが、トルゴやノゴーンゴルのように支流上流域にあるにも関わらず、水量の多い水源が近いために飲用水を得やすいため引き続いて後期営地として利用されることが多い。

 この時期は、7時頃搾乳し、8時頃に全トナカイを1つの群として放牧に出す。去勢も、発情期も終わり、仔トナカイへの授乳もほとんど行わなくなったため、群を1つにして管理できるようになる。ただし、母仔同士、オス同士、メス同士で首をつないで放牧にだす。雪が積もるまでは群の動きが激しいため、行動範囲を制限するための処置である。秋前期営地での放牧と同様に、昼過ぎくらいに、川下に放たれたトナカイの向きを変えさせるために人が出向く。ジョロク川は支流が多く流れ込んでおり、放って置かれた群は支流を遡行してしまいがちのため、あちらこちらの支流に群が散ってしまわないようにしつつ、ジョロク川沿いを上下移動させなければならない。ボルハイグでは沿うべき大きな川がないが、営地の背後の山の南側斜面と、営地前方の山の北側斜面の間を移動させる。暖かい時間帯には、北側斜面に追い込み、涼しい時間帯には、南側斜面に移動させる。すなわち、柵から放牧に出したら、すぐに背後の山の方へ群を追い立てる。次いで、昼過ぎには、群を営地正面の山の北側斜面へと移動させるのである。そして、16時半頃に、トナカイを営地の方へ向けて追い立て、17時半頃には、柵に入れることになる。柵にトナカイを入れた後で、頭数を確かめ、メスを柵から連れ出し、外に寝かしてある丸太に繋ぎ、搾乳を行う。11月近くになると、搾乳量は非常にすくなくなり、乳を出さなくなるメスも増え始めるため、バヤラー集団では、1~2リットル程度が得られるにすぎない。

 以上に秋営地のそれぞれの時期の放牧サイクルと搾乳サイクル、および牧畜活動について述べてきた。秋営地では、一年のうちでもっともトナカイの群の落ち着きがなく、統率しにくい。そのため、地形と気温差を利用すると共に、柵利用によって群管理を効率化しようとしている。そして、発情期に入る前の去勢、発情期のオスの管理、仔トナカイへの授乳の終了などを契機として、営地移動を行っている。そして、雪がつもりトナカイ群がすっかり落ち着きを見せ始める頃を見計らい、冬営地へ移動する。そのころには、ジョロク川も凍り始め、飲用水の獲得に困難をきたすようになっている

4 冬営地における牧畜活動

 11月の始めから半ばにかけて、冬営地へ移動する。冬営地はオルツを立てる場所から南側に開け、太陽光がオルツに出来るだけ多く差し込み、オルツの背後には北風よけになる森がある場所でなければならない。さらに、オルツからみて正面には山があり、そこには深く雪が積もっていなければならない。つまり、マイナス50℃に至るような冬期は人間にとっては、暖かい場所でなければならないので、太陽光と薪の利用がしやすい場所が選ばれる。そして、営地の条件で絶対なのは、トナカイが落ち着ける場所がオルツから近いところにあるということである。すなわち、それが、オルツ正面の山の北側斜面である。ここは日陰がちでトナカイが落ち着いて雪をかき分けながら食事をするのに都合の良いところとなる。トナカイがエサを求めて走り回ることも少なくなるため、良く太るのである。

 バヤラー集団はほぼ毎年オストを冬営地に選ぶ。オストとはモンゴル語で、オス=「水」、ト=「ある場所」を意味し、つまり水が豊かにあるところを指している。ここはジョロク川に流れ込む支流の一つオスト川の上流域にあたり、オスト川の水源の一つであるハルオストから約200mくらい下ったところにオルツは立てられ、そこから、川辺まではほんの15m程度である。オスト川は川幅2mたらずの小川であるが、水量は非常に多く、水深も40cmから60cmと深い。水深も深く、水流も速いため、もっとも寒くなる12月終わり頃に、水面に3cmほどの氷が張る程度で、氷を割れば飲用水を得られる。川向こうには、なだらかな木の生えていない山の北側斜面が広がり、積雪量は1mを軽く越える。オルツの背後には急斜面の山が控え、北風を封じている。オルツのある場所から川下に1kmくらいの所に、杭を立て、狼の毛皮をぶら下げておき、狼の臭いを嫌うトナカイがそれ以上、川を下らないようにしておく。

 冬営地での牧畜はほぼ放置放牧である。群を分けることもなく、自由に放ってやる。2頭ずつのペアリングもこの時期には行わない。種トナカイも営地付近に繋がれることもなく、前脚を首と繋がれることもない。トナカイは夜中、自由に活動し、午前中にはオルツ周辺に戻ってくる。塩を好むトナカイは夜の間に、人間がした尿から塩分を取るために、特に追い立てなくとも、帰ってくる。また、夏営地同様に塩場を作っておいてやる。時には、鍋一杯に約20リットルの水を沸かし、塩を溶かし、まいてやるなどする。「カァーウ、カァーウ」と声を出して呼ぶと、付近のトナカイたちは我先にと宿営地の塩場に駆け戻ってくるのである。1年を通じて普段から、塩を手からなめさせたり、尿を舐めさせたりと塩を利用したトナカイ飼育が徹底された結果であろう。

 朝戻ってきたトナカイの中に、冬期も乳を出すメスがいた場合、それを捕らえて搾乳する。ただし、この時得られる乳はわずかで、11月半ばに6頭のメスから、あわせても0.3~0.4リットル程度である。これはお茶に入れて飲用する。

 普段は放置しておくのが基本であるが、特に日差しが強い日などは、群が散ってしまうことが予想されるので、帰ってきたトナカイを柵に入れておく。そして、午後2時頃にふたたび放牧に出してやる。冬期は出来るだけ柵に入れないで飼育するのがよいとされる。柵は基本的に日差しが強い日に群を掌握するために利用するに留まっている。

 基本的にオルツ周辺でのトナカイの扱い方には三種類ある。すなわち、①丸太に結びつける。②柵に入れる。③放置するの三種類である(Ayolsed 1996)。バヤラー集団以外のトナカイ頭数の少ない集団では、①、③が多く、②柵を利用していない。この柵を利用する方法は、ツァガーンノール郡が作られ、ツァガーンノール狩猟トナカイ牧畜組合ができた頃から指導が始まったという。ツァータンの話によると、アヨルセッドの指導によって柵利用が勧められたという。それ以前のネグデル時代では、柵を利用することはなく、切り出した直径10センチ、長さ5m程度の丸太に繋ぐ①の方法が普通であった。40~50頭程度のトナカイを所有した場合、柵を使わず丸太に縛り付ける方法をとってもそれほど手間ではないとされており(Ayolsed 1996)、集団化が進められる以前、および集団化後も小規模飼養であった時代には、柵の必要は無かったのであろう。しかし、アヨルセッドが指導を始める頃から、トナカイを第六の家畜として大規模飼養への転換が奨励されるようになり、行政指導の元に柵の利用が勧められた。事実、社会主義が崩壊する以前の宿営地跡をみると、大きな柵が作られた形跡が多く見受けられる。つまり、本来は柵を使わずにトナカイを管理していたが、大規模飼養を目指し、トナカイの数を増やしたために、柵を利用するようになったのである。そして、この柵利用は管理を容易にはしたが、柵に入れない方がトナカイの健康状態が良いことはツァータンの間には周知の事実となっているのである。

 冬営地には、トナカイの出産の始まる4月半ば頃まで滞在する。

ツァータンのトナカイ飼養の特徴

 以上にツァータンの年間サイクルと、その時々の管理技術について述べてきた。
トナカイの生態的特徴を移動要因とした場合、トナカイの出産に適した土地=春営地、暑さを避けられる土地=夏営地、去勢および交配を行う土地=秋営地、トナカイに手をかけずに済む土地=冬営地と、大きく4種類の営地を移動している。これらを踏まえて、ここではツァータンのトナカイ飼養を考察する。

 ツァータンのトナカイ飼養はトナカイと非常に近く接触する機会が多いといえる。つまり、母子群を分離したり、繋いだりしながら、その都度、一頭ずつ手を触れ、オスたちは一頭ずつ捕らえられて去勢され、かつ小さいうちから調教を日常的にうけるのである。去勢されたオスたちも子供たちの騎乗練習相手として、日常的に触れられながら育っていく。そして、日常的に人間の手から塩や尿をもらう。人間の体を舐めにやって来たり、オルツをなめ回したりする。このように人間とトナカイの距離は非常に近い。そのため、母子群、使役トナカイ群、種オスのどの個体もが基本的に手での捕獲が可能である。これに対して、大規模飼養されているトナカイと人間の間の距離はツァータンたちのそれと比べて遠い。高倉に寄れば、「より重要なのは、たとえ訓練が終わり人が利用可能になっても、群で集まっている状態から人が直接、手でその個体を捕獲することは原則的に出来ないと言う点である。調教した去勢オスは未調教個体と比べると、人が接近できる距離は小さくなるが(しかしながら未調教個体と混じっている状態になるとほとんど差異はなくなる)、基本的には投げ縄による捕獲が必要なのである。」(高倉 2000)という状況である。

 ツァータンはトナカイを捕らえるのに基本的に道具を使わない。柵に追い込んだ状態であれば、そのまま柵に入っていって手づかみで捕らえることが出来る。柵が無い場合でも、放牧から戻されたトナカイたちは自ずから営地周辺で尿を舐めはじめるなどして、立ち止まる。中にはなかなか捕らえられない個体もいて、数人で囲むこともあるが、それでも手づかみが基本である。

 また、トナカイの活動が活発になる時期には、2頭ずつ繋いで行動制限を加えているのも、手づかみ出来る理由である。しかし、結局、普段から手づかみされているトナカイたちは人間にすっかり慣れ親しんでしまうことになる。更に、子供たちは柵の中のトナカイに無差別に飛び乗って遊ぶ。特に調教を施さなくとも、トナカイは鞍を付けられてヒモで繋がれたならば、おとなしく引かれていくのは、このように普段から子供が乗って遊ぶことが調教に等しいことをしているのである。

 人との接触に対する許容度という点においては、どの個体群もその間に差異はそれほどない。母トナカイは帰ってきては、塩におびき寄せられて捕らえられ、搾乳される。仔トナカイも帰ってきては、塩におびき寄せられて捕らえられ、つながれる。他の群は、常時、塩と尿ほしさに、人のまわりをうろつき、すぐに捕らえられる。「家畜側からみて、人との接触を積極的に行うかどうかは別として、これを許容する個体が現れると言うことである。その点からすると、私的所有で調教済みの雌トナカイ、騎乗トナカイ、駄載・牽引トナカイという順で、人との接触への許容度が高い。」(高倉 2000)というのがシベリア大規模トナカイ飼養であるとすれば、ツァータンのトナカイ飼養においては、人間と家畜の距離がより一層近いことは明らかである。
冬期や夏期の夜間放牧や日中放置放牧をみると、人間とトナカイの関係が非常に希薄な印象を受けがちだが、日常的な対個体への接触が非常に密であるからこそ、可能な放牧方法なのである。

 ツァータンは、このように各個体との距離を近くした上で、群の管理を行っている。40頭前後を所有規模としていたのが、社会主義を経験する以前のトナカイ飼養であった。しかし、世帯単位では無く、宿営集団を形成している現在のツァータンは、自然と管理する頭数が増え、群単位での管理も行うようになっている。群は母トナカイ、仔トナカイ、種オス、被去勢使役オスに分けられて管理され、これら4つの群が季節によって、時には分けられ、時にはまとめられて管理されている。母仔群を分け、それぞれを交互に拘束することで、両群の行動管理を行い、さらには種オスおよび被去勢オス群の宿営地周辺への回帰を緩やかにでも促すことになっているのである。そしてこの管理をより容易なものとするために、地形を柵のように利用し、また、柵を作ることで、少人数でも群管理が出来るような工夫をしていることが伺える。

 ツァータンのトナカイ管理技術の大きな特徴は家畜との距離を近付けるための管理技術と、群管理の合理化を求めた柵利用にあるといえよう。少人数でトナカイを管理できるようにすることで、女性や子供でも十分に日常の放牧活動を可能にしているのである。

 森林地帯のトナカイ飼育について、佐々木はトナカイが増えると、その世話に追われ、他の活動すなわち、狩猟、漁労活動の時間が少なくなるために不利となるとし、「東シベリアのエヴェンキの例では一家族当たり、20頭ほどが理想的であるといわれる。不猟時のことを考慮しても30頭~50頭ほどで十分である。それ以上になると家畜の世話に追われて狩りに行く暇がなくなるのである。」と述べている(佐々木 1992)。

 確かに、社会主義以前のトナカイ飼養であったならば、まさにここに述べられた理想が当てはまるであろうし、実際に現地で聞く昔話とも合致する所有頭数の数字である。しかし、現在のツァータンは中規模トナカイ飼養をしており、それに適応することが求められている。トナカイの日常的な世話を女性や子供で可能とする様々な工夫が、現在のトナカイ飼育のあり方から観察できた。トナカイ飼育を少人数で効率的に行うようにする理由が家庭内の分業体勢を確立することにあるのは明白である。先に佐々木が述べたように、男性たちは狩りに行かねばならない。トナカイ飼育で賃金を得られなくなった現在、彼らはいくつもの生業を平行して行うために、以上のようなトナカイ飼育方法を営むに至っているのである。

さいごに

 本稿ではツァータンが営むいくつもの活動のうち、トナカイ飼育だけを対象に取り上げて述べてきた。しかし、彼らの活動は社会の社会主義化、資本主義化という大きな変動の中で常に揺れ動きながら、適応を余儀なくされてきており、トナカイ飼育だけではツァータン社会の全体像を述べることは適切ではない。トナカイ飼育を女性や子供だけでも可能な状況にした以上、男性の役割を述べなければなるまい。彼らの活動は狩猟活動、交易活動や観光産業への適応など常に変化の中で展開されている。筆者は90年代半ばから長期にわたって彼らと生活を共にしてきた。それらのデータを少しずつではあるが発表し、今後の議論に資したいと思う。

引用文献


Аюулсэд.Г. 1996 Хөвсгөлийн цаа буга,Мөрөн.
Бадамхатан.С. 1962 Хөвсгөлийн цаатан ардын аж байдлын тойм,ШУАХ,Улаанбаатар.
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佐々木史郎(1984):「シベリアのトナカイ遊牧-西シベリア、ネネツ族の事例とその経済的意義の考察-」.『季刊 人類学』、15(3)、114-180.
佐々木史郎(1992):「シベリアのトナカイ―人とのかかわりから―」.『ソビエト研究』、第7号、128-144.
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